からだの復活
ノーマン・H・キャンプ著
「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」ヨブ記14章14節
「死者は、どのようにしてよみがえるのか。」コリント人への手紙第一 15章35節
目次
第一章 死人は生き返るか
敬虔な人々の確信 ヨセフの遺骨に関する命令 ダビデの身も安らかに住まう
変貌の山のモーセとエリヤ 人間の理性による確証
第二章 「復活」は何を意味するのか
復活はからだにだけ関連している 信じられないことですか
合理主義者たちの不信仰 パウロは復活を絶えず宣べ伝えた
第三章 もし死者がよみがえらなければ
(1)なぜ救われると主張するのか (2)なぜ死者のゆえにバプテスマを受ける のか
(3)なぜキリストのために苦しむのか (4)からだの復活とはどのようなものか
復活のからだの栄光はそれぞれ異なる
第四章 キリストのからだは復活したか
目撃者たちの証言 (1)マグダラのマリヤ 最初の目撃者 (2)女たち
(3)ペテロ 回復されたペテロ (4)エマオへ向かう二人の弟子
(5)十一人の弟子たち 弟子たち、主のからだに手を触れる (6)十二弟子たち
(7)ガリラヤで七人の弟子たちに (8)山上で十一人の弟子たちに
(9)五百人以上の兄弟たちに (10)ヤコブに (11)ベタニヤで十一人の弟子たちに
第五章 イエスのからだは今どこにあるのか
昇天後のキリストの現れ (1)ステパノに (2)ダマスコへの途上でパウロに
(3)アラビヤでパウロに (4)神殿の中でパウロに (5)牢獄でパウロに
(6)パトモス島でヨハネに
第六章 キリストの復活は何を意味するか
(1)神の御力の現れ (2)力ある神の御子 (3)主であり、キリストである
(4)大いなる救い主 (5)神の義 (6)すべての人のさばき主
(7)すべての人の復活 (8)神が任命された王 来たるべき王に関する預言
約束された王の出現
第七章 からだの復活を否定する者たち
血肉のからだ 「血の中にあるいのち」と「聖霊の中にあるいのち」
何というすばらしい変化 にせ教師たちの反論 厳密な吟味
エホバの証人(ものみの塔) 近代主義 近代主義者の教え キリスト教界の信条
様々な教派の信仰 からだなる集会の古い賛美歌
第八章 義人の復活
新約の聖徒たち ヨセフ――キリストのひな型 イエスにあって眠る者たち
生き残っている信者たち 旧約の聖徒たち 預言された聖徒たちの復活
「終わりの時」 患難時代の聖徒たち ユダヤの民との「死の契約」 獣の刻印
患難時代の聖徒たちとはだれか 患難時代のさばき 輝かしい完成
第九章 悪人の復活
忌むべきからだ 復活のからだがゲヘナに投げ込まれる 復活の順序
神の前に立つ悪人たち 来たるべき御怒りから逃れよ
「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、
大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」(使徒四・33)
第一章 死人は生き返るか
「人が死ぬと、生き返るでしょうか」(ヨブ一四・14)。あらゆる時代の人々がこのように質問し、多くの人々が満足のゆく答えを捜し求めてきました。もし死後の世界がないなら、なぜこのような疑問が人の心に生じるのでしょうか。ですから、たとえ一時的にせよ、人がこのような問題を真剣に考えること自体、すでに重大な事実なのです。野の獣たちは未来について何の心配もしていません。
ソロモンはこの問題を注意深く考えました。彼は、慎重に考えたことを「伝道者の書」に書き記しました。「死後のいのちはない」と主張する者たちは、しばしば「伝道者の書」から引用します。しかし、次のことを心に留めておくべきです。すなわち、ソロモンは神から特別な知恵を授けられた王でしたが、彼の考えは、神が天からご覧になったものではなく、人が「日の下」で見たものにすぎないということを。「日の下」という表現が、「伝道者の書」の中に二十九回、用いられています(「天の下」という表現も二回、用いられています)。ソロモンは、神から与えられた知恵をもって「日の下」の物事を見たとき、次のように考えました。「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」(伝道者三・19、20)。
けれども、ソロモンが考えたのは、「人の霊」や「からだの復活」についてではありません。それらのことは、生まれながらの人間には隠されているからです。ソロモンが書き記したのは、人が「日の下」で見ることだけです。彼は、人の霊については次のように尋ねています。「だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを」(同三・21。口語訳)。神の啓示なしに、このような質問に答えることはできません。人は死のとばりの彼方を見ることができないからです。しかし、だからといって、人の霊とからだに未来がないということにはなりません。人の知識に限りがあり、神の啓示が必要であるというだけなのです。
ソロモンは、人生の移り変わりに思いを巡らし、満足のゆく説明を見いだそうと努めましたが、むだでした。人が見る限り、物事はすべて墓で終わるからです。それにもかかわらず、彼は、「死後のいのちはある」と結論づけました。彼は、「神は……人の心に永遠への思いを与えられた」(同三・11)と告げています。また、「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(同一二・7)とも述べています。「墓の彼方にもいのちがある」という確信が、人の心にしっかり植えつけられている、と断言しているのです(それに反対する意見があるにもかかわらず)。といっても、人の推論や調査・研究によって、それがどのようなものであるかを確定することはできないのですが。
「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」(ヨブ14章14節)
「死者は、どのようにしてよみがえるのか。」(Ⅰコリント15章35節)
あらゆる時代の人々がこのように質問し、 多くの人々が満足のゆく答えを捜し求めてきました。
本書「からだの復活」は、この質問に関する答えを聖書より、非常に分かりやすく解き明かしています。