らい病人のきよめ
G.C.ウイルス著
目次
序
第 一 章 らい病
第 二 章 らい病が全身をおおう
第 三 章 「確かに汚れている」
第 四 章 「汚れている、汚れている」
第 五 章 神のきよめの方法
第 六 章 二羽の生きているきよい小鳥
第 七 章 毛をそり落とし、水を浴びる
第 八 章 天幕の外にとどまる
第 九 章 再び毛をそり落とし、水を浴びる
第 十 章 八日目
第十一章 罪過のためのいけにえの羊
第十二章 一ログの油
第十三章 現在への適用
第十四章 貧しい私たち
序
私はこの「らい病人のきよめ」を非常に興味深く読み、また、すべての点で大いに教えられました。私が好感を持てたのは、著者がこの本の中で、らい病そのものについて詳しく述べていないということです。聖書自体がそうしていないことは、なお興味深いことです。罪が罪であるように、らい病はらい病なのです。私たちが神の前に罪ある者とされるのは、表面に現れる罪の行いの形やその回数によるのではなく、私たちが本質的に罪人だからです。このわけで、レビ記によれば、らい病は客観性に基づいてのみ診断されなければなりませんでした。大切なのは、らい病人がどのように感じ発言するかではなく、祭司が見て、どう判断するかでした。らい病人のきよめのときにも、きよめに用いられるものは、外部からその人に客観的に適用されます。その人をきよめるものが、その人の内部から沸き上がって来るのではないからです。らい病人が宿営に帰ることができるのも、その人自身の願望や宿営の中にいる人々の意志によるのではなく、ただ神の律法によってのみ可能なのです。そして祭司は、その神の定めに厳密に従わなければなりませんでした。同様に私たちも、自分がどう思うか、実感がわくかどうかに関係なく、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ三・二三)と神が宣言しておられるから罪人なのです。
この、らい病人とそのきよめについての非常に興味深い旧約聖書の規定の真の霊的意味は、新約聖書のみことばによって完全かつ十分に解き明かされている、と私は考えます。論旨全体が私たちの救いにおける神の力の絶大さと、人間の完全な無力を教えています。
どうか主が、栄えに満ちた神の御国の到来の日のために、この冊子を祝福して用いてくださり、キリストなしに私たちは何もすることができないということを罪人たちに示してくださいますように。
L・S・ヒュイゼンガ
第一章 らい病
聖書、特に旧約聖書は、私たちの主イエス・キリストについての、または主イエス・キリストに関する事柄についての非常にすばらしい型に満ちていることを、読者の多くは知っておられることでしょう。新約聖書ではこれらの型を「影」(コロサイ二・一七、ヘブル八・五、一〇・一)とも呼んでいます。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても」と記されているとおりです。これらの「影」の中には真理が非常に明瞭に、詳しく示されているものもあるので、これらの「影」のあざやかさと美しさにおどろかされます。
これらの美しい影の中でも、「らい病に関する律法」のように美しく、また詳細にわたる「影」は多くはありません。