主イエス・キリストご自身とそのみわざについて語っている詩篇はいくつかあります。
それらが「メシアの詩篇」と呼ばれるのは、メシアのことを語っているからです。
詩篇の中には、主イエスご自身とその御思いだけが記されているものもありますが、
作者の経験を記した中に突然メシアに言及しているものもあります。
(詩篇第69篇など)
ある詩篇のみことばが新約聖書に引用され、それが主イエスに当てはめられていれば、
その詩篇は間違いなくメシアの詩篇です。
詩篇の中では、メシアに言及している個所は、年代順には、並んでいませんが、本書では、理解しやすいように、16あるメシアの詩篇を主のご生涯をたどるような形で年代順に取り上げています。
詳しくは、目次をご覧下さい。
メシヤの詩篇
T・アーネスト・ウィルソン著
目次
序文
1 第二篇 永遠の御子――その職務上の栄光
2 第四○篇 キリストの受肉
3 第九一篇 荒野の試み
4 第四一篇 裏切り
5 第二二篇 十字架
6 第六九篇 罪過のためのいけにえ
7 第一六篇 埋葬・復活・昇天
8 第六八篇 キリストの昇天
9 第四五篇 王なる花婿
10 第二四篇 栄光の王
11 第一一○篇 祭司・王・さばき主
12 第八篇 最後のアダム
13 第七二篇 千年王国――王の統治
14 第八九篇 ダビデへの契約
15 第一○二篇 変わることのないお方
16 第一一八篇 「ハレル」の結び
付録1 修辞的表現法
付録2 詩篇の分類
序 文
キリストは、復活された日に、エマオへの道でふたりの弟子に会い、「モーセおよびすべての預言者から」ご自分に関する事柄を説き明かされた(ルカ二四・27)。その結果、彼らの心に大きな変化が生じた。彼らは次のように告げたのである。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」(同・32)。
主は夕暮れに「二階の広間」に姿を現され、弟子たちに次のように言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした」(同・44)。そして主は、聖書を悟らせるために彼らの心を開かれたのである。
主イエス・キリストご自身とそのみわざについて語っている詩篇はいくつもある。それらが「メシヤの詩篇」と呼ばれるのは、メシヤのことを語っているからである。「どうしてメシヤの詩篇であることが分かるのか」という疑問が生じるかもしれない。その答えは次のようなものだろう。すなわち、ある詩篇の中にメシヤに言及した箇所があり、それが新約聖書の中でキリストに当てはめて解釈されている場合である。その詩篇全体がキリストに当てはまる場合がある(たとえば、第二二篇)。ひとまとまりの部分だけの場合もある(たとえば、第四○篇の六節から一○節)。何節かだけの場合もある(たとえば、第六九篇の四節、九節、二一節)。たった一節だけの場合もある(たとえば、第四一篇の九節)。
詩篇の中には、主イエスご自身とその御思いだけが記されているものもあるが、作者の経験を記した中に、突然メシヤに言及しているものもある。たとえば、第六九篇がそうである。ダビデは、「神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません」(5節)と叫んでいるが、彼が自分のことを言っているのは明らかである。しかし、「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」(21節)という一文は、明らかにメシヤに関するものである。マタイの福音書の二七章三四節、四八節でキリストに当てはめられているからである。したがって、詩篇の作者が霊的に経験したことと、キリストご自身に関する預言とを注意深く区別しなければならない。
パウロはテモテに次のように勧めている。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす(訳注:英語欽定訳は「正しく区分する」)、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」(Ⅱテモテ二・15)。
ある詩篇のみことばが新約聖書に引用され、それが主イエスに当てはめられていれば、その詩篇は間違いなくメシヤの詩篇である。しかし、その原則に当てはまらない詩篇が三つある。明らかにメシヤに関するものでありながら、新約聖書に引用されていないのである。すなわち、
第二四篇:栄光の王について語っている。
第七二篇:千年王国におけるキリストの支配について述べている。
第八九篇:ダビデとの契約が彼の大いなる子孫(メシヤ)によって履行されることを説いている。したがって、これらもメシヤの詩篇に含めることにする。
なお、詩篇の中でメシヤに言及している箇所は、たとえば年代順といったように順序正しく並んでいるわけではない。第二篇は、導入的なものとして、メシヤの職務上の栄光を大まかに預言したものだが、第四○篇はメシヤの受肉、第二二篇はメシヤの十字架の苦しみ、第一六篇はメシヤの復活といったように、その順序はばらばらである。そこで、本書では、十六あるメシヤの詩篇を、主のご生涯をたどるようなかたちで年代順に取り上げることにする。目次を大いに参考にしていただきたい。
どうか、私たちの理解が深まり、これらすばらしい詩篇の中の主に関する事柄を知ることができるように。また、聖霊の助けによって、それらを解釈することができ、それぞれの詩篇が私たちの心に力強く語りかけるように。
1 第二篇 永遠の御子――その職務上の栄光
第一篇と第二篇は、ヘブル語の聖書では、つながって一続きになっている。そして、詩篇全体の序文となっている。第一篇の最初に記されている「幸いなことよ」が、第二篇の最後にも記されている。二つの詩篇が一体となって、「メシヤの詩篇」の見事な導入部となっている。第一篇にはキリストの道徳上の栄光が、第二篇にはその職務上の栄光が記されている。第一篇で描かれている主は、幸いな「人」である。ある書物で心が満たされているお方――「水路のそばに植わった木」のようなお方――である。第二篇で描かれている主は、神がお立てになった王であり、鉄の杖で諸国を支配なさるお方である。第一篇には主の人間性が、第二篇には主の神性が示されている。両篇に共通するテーマは、神の愛する御子、すなわちメシヤの栄光である。このお方は、この世の邪悪さや政治的、社会的混乱にもかかわらず、やがて、いつの日か王座にお着きになり、世界を支配なさるのである。
第二篇は新約聖書で七回引用されている(使徒四・25、26、一三・33、ヘブル一・5、五・5、黙示録二・27、一二・5、一九・15)。そのすべてがメシヤ、すなわち主イエス・キリストに当てはめられているため、第二篇をメシヤの詩篇と呼ぶことができる。この詩篇には、メシヤの職務上の称号が段落ごとに一つずつ記されている。すなわち、「油を注がれた者」(2節)、「わたしの王」(6節)、「わたしの子」(7節)、「主」(11節)である。
第二篇の概要
第二篇は一二節まであり、三節ずつ、四つに区分できる。それぞれの区分にひとりずつ、四人の語り手が登場する。
一、反逆の声――反抗する人間(1-3節)。
二、主なる神の答え――神の御怒り(4-6節)。
三、御子の啓示(7-9節)。
四、和解と服従を促す聖霊の呼びかけ(10-12節)。人類の政治的、社会的混乱に対する神の答え。
「メシアの詩篇」・詩篇102篇変わることのないお方の本文より抜粋しています。
詩篇102篇は、二つに区分されます。
① 拒まれた孤独な「人」の祈り(1節から24節)
② 永遠の御子に対する全能の神の答え(25節から28節)
拒まれた孤独な「人」の祈り(1節から24節)
ここで主は三つの主題について祈っておられますが、ここでは、
(二) 主の孤独に、ついて紹介します。
主は三つのたとえを用いておられます。
「私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。
私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。」
(詩篇102篇6節から7節)
「ペリカン」は、悲しみに沈んだ惨めな様子を見事に表しています。
ペリカンは、頭を胸にくっつけるような姿で、沼地水辺にうずくまっており、
イスラエルでペリカンが見られるのは、フレ湖周辺だけです。
ある著者は、次のように記しています。
「ペリカンは、私がこれまで見た中で、最も悲しそうな顔つきをした鳥である。ペリカンの表情は、厳しい。」
この悲しげな光景に「ふくろう」が加わる。
「ホーホー」という物悲しい泣き声が廃墟に響く。
ふさぎ込み、廃墟の中をあてもなく飛び回り、崩れ落ちた建物や墓場の中に止まっている
ふくろうによって、嘆き悲しむ人が描かれている。
「すずめ」(7節・訳注・キングジェームス訳による新改訳では、鳥)は、集団で生活する鳥である。
そのため、群れにはぐれたすずめには、「わびしさ」というものを無言のうちに
語っている。この三種類の鳥によって見捨てられた孤独な状況が象徴的に表されている。
周囲に大勢の人がいる時でも、孤独を感じる時がある。
大都会は、この地上で最も孤独な場所であるかも知れない。
キリストがこの地上で孤独な生涯を送られたことが、福音書の中で少なくとも四回、強調されています。
① 家庭生活において
主は少なくとも四人の兄弟と複数の姉妹がおられた。
「この人は大工ではありませんか。
マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」
こうして彼らはイエスにつまずいた。
(マルコの福音書6章3節)
「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」
(ヨハネの福音書7章5節)
とは、なんと意味深長な、みことばだろう。
詩篇第69篇8節には、次のような預言が記されている
「私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。」
主が復活されるまで、彼らは救いの信仰を持つに至らなかったようである。