キリストを受け入れなかったサマリヤ人たちに、天から火を呼び出すことを願い、「雷の子」(マルコ3章17節)と呼ばれたヨハネ。
あるときは、母親と同じ野心を抱き、「御国で王なる主の右と左に座る栄誉を、自分たち兄弟に与えてほしい」と願い出たりもした。(マタイ20章21節)
また、自分たちの仲間でない者が、キリストの名によって奇跡を行うことにさえ、我慢できなかったヨハネ。(マルコ9章38節)
このようなヨハネが、主の大いなる愛のゆえに変わる。
主は、十字架にかかられたとき、ご自分の「母」の世話をヨハネに託された。
(ヨハネ19章27節)
主の愛の中に深く、深く、入っていったヨハネには、「雷の子」と呼ばれた面影は、もはやない。
本書「ヨハネの手紙」は、永遠の命を主題に、ヨハネの手紙の真理を鋭く、深く、追求している。
ヨハネの手紙
E・W・ロジャーズ&J・E・フェアフィールド
●ヨハネの手紙/目次
ヨハネの手紙第一
著者について
はしがき
序文
序論
1 著者ヨハネ
2 いのちのことば
3 告白のことばの吟味
4 神の家族
5 神の子どもである証拠
6 キリストが降臨された目的
7 キリストご自身
8 未来に起こること
9 難解な聖句について
ヨハネの手紙第二、第三
序論
ヨハネの手紙第二
ヨハネの手紙第三
著者について
本書の著者は、伝道者、教者、著述家として、多くの国々の信者たちによく知られていた。三十年以上、ビジネスマンとしての生活をロンドンで送り、その間も、ロンドン、およびイギリス諸島の各地で多くの霊的な働きをしたが、その後、この世の職を離れて、みことばの奉仕に専念した。それ以来、イギリス、アイルランドをはじめ、ニュージーランド、オーストラリア、インド、カナダ、アメリカ合衆国、ヨーロッパ大陸と、世界各地を訪問した。
彼の子どもたちの中には海外に遣わされている者が多く、パキスタン、インド、ニュージーランド、カナダなどで、専心の働き人として(あるいは、世の職業を兼ねながら)主に仕えている。
長年にわたって寄稿された月刊誌などの記事のほか、彼が書き著した書物や小冊子は、かなりの数に上る。
はしがき
この世のいのちは神秘的なものである。それをおもに研究している者たちでさえ、それについてほとんど何も分かっていない。人が「永遠のいのち」を持つことができるということは、さらに神秘的かつ驚くべきことだが、それにもかかわらず、主イエス・キリストにすべてをゆだねた人々は、それを持っているのである。「永遠のいのち」もまた、彼らにほとんど理解されておらず、十分明らかにされてはいない。けれども、それが完全に明らかにされ、それを十分に楽しむことのできる日がやがて来るのである。
この本は、ヨハネがその主題について記したことを学ぶ際に役立つよう作られたものである。本書は、みことばを徹底的に解き明かしたものではなく、ヨハネの手紙第一の重要なテーマをいくつか取り上げ、それについて述べたものである。聖書を手元に置き、絶えず参照しながら、本書を熟読していただきたい。
本書は詳しい解説書ではないが、みことばを教えたり、取り次いだりする方々が、(たとえ短くとも)すばらしいこの書簡にじっくり取り組まれる際にも、大いに活用していただきたい。
本書を読み進めていくと、著者が触れていない美しさが数多く見いだされるということに気づくだろう。彼は、読者が自分でそれを発見することを期待している。みことばそのものが学ばれるとき、信者がすでに持っている永遠のいのちが成長し、その力が増すことを確信しているからである。
この小著が神の栄光のために用いられ、御民の助けになることが、著者と発行者の願いである。
序文
人々がみことばを読み、それを解釈する際には、その背景に、その時代特有の精神的風土というものがあるが、それはどの時代においても当然のことである。聖書が神の霊感によって記されたということは、それが後の時代の人々にも現実的なことばで語りかけ、彼らの特別な必要を実際に満たすことからも明らかである。かつて、ある国々では、ヨハネの手紙第一が読まれ、解釈される際には、正統的なキリスト教界がその背景となっていたものだった。たとえ「個人の信仰」や「救いの確信」といった問題に関して、はなはだ不確かだったとしても、神を信じ、キリストの神性を信じ、聖書を信じていたのである。当時の人々はこの手紙によって大いに励まされた。「永遠のいのちを持っているということを知ることができるのだ」ということをこの手紙が主張しているからであり、単なる形式的な信仰告白とは違った、実際的なきよい生活のためになされた備えのことを、この手紙が説いているからである。けれども、現代は全く異なった状況にある。みことばに関する自由主義的高等批評や、この世界に関する唯物論的解釈が、(意図的かどうかにかかわりなく)次のような印象を世界中の人々に与えてしまった。すなわち、「聖書はもはや完全に信頼できる書物ではない」と。その結果、教会に集う人の数が激減し、昔の異端が装いを新たにして猛烈に息をふき返した。これは非常に残念なことである。しかし、それは、現代が、かつてのどの時代にも増して、ヨハネの手紙が記された頃の世界に似てきているということである。すなわち、キリスト信仰に関する基本的な事実が普通に疑われ、否定され、しばしば茶化される世界に。
したがって、ロジャーズ兄の書は時宜にかなったものである。彼は、ヨハネの手紙第一の主要なテーマを扱っている。彼が、いつもの率直かつ力強い文体でそれらに取り組み、過ぎ去った時代よりもさらに基本的なレベルで、時々それらを適用しているのは、すがすがしい限りである。特に助けとなるのは、この手紙の主要なテーマ、すなわち、神と(そして、互いに)交わりを持つとはどういうことかについて説明している箇所である。もちろん、本書全体を細心の注意を傾けて読むべきである。本書の価値はおのずと明らかになるだろう。
ある書簡に関する解説書が新たに出版されると、解釈が難しいことで有名な箇所を著者がどのように説明しているかを吟味したくなるのは当然のことだし、実際、そうする人もいる。もしだれかがここでそのような気持ちになったとしたら、その人は、独創的、創造的、建設的な考えを数多く見いだすに違いない(たとえ著者の意見に同意できないものがあったとしても)。しかし、もし批判にばかり終止するなら、その人は最上のものを見失うだろう。なぜなら、本書にある最上のものとは、この手紙の主旨をはっきり理解し、その教えを実際の生活に正しく適用できるよう手助けすることにほかならないからである。
デイヴィド・グッディング
序論
ヨハネの著書は、一般に考えられているとおり、新約聖書の中では最後の時期に記されたものである。それらは、ほかの書の内容を補い、全体を完全なものにしている。彼の福音書は、三つある「共観福音書」を補い、完全なものにしている。それは文体においても主題においても、共観福音書と全く異なっている。彼の書簡は新約の他の書簡を補い、十分明らかにされていなかった真理の一面を強調している。黙示録は旧約および新約の預言的なみことばを補い、完全なものにしている。神の霊感によってみことばを記した者たちの中で、最後に天に召されたのがヨハネである。
本文より抜粋、(神のこどもである証拠より)
金や銀にマークがあるように、神の子どもたちにも、本物であることを証明する確かなしるしがある。
ヨハネは、「神から生まれた」、あるいは、「神によって生まれた」という
表現を七回用いている。
「もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。」
(ヨハネの手紙 第一 2章29節)
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。
なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」
(ヨハネの手紙 第一 3章9節)
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」
(ヨハネの手紙 第一 4章7節)
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。
生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」(ヨハネの手紙 第一 5章1節)
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。
私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」
(ヨハネの手紙 第一 5章4節)
「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。
神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」
(ヨハネの手紙 第一 5章18節)
「生まれた」という動詞は、完了時制であり、それによって、「その誕生の結果は永久的なものであり、それを元どおりにすることはできない」ということを示している。
すなわち、神の子どもとされた者の立場が永遠に保証されていることを証明しているのである。
神の家族から除名されることはない。
一度神の子どもとされた者は、いつまでも神の子どもであり、与えられた命を失うことは決してない。