死とその後
H.A.アイアンサイド著
目次
第一章 クリスチャンの死とその後
第二章 未信者の死とその後
第三章 霊とたましいとからだ
クリスチャンの死とその後
「クリスチャンは、死んだあと、いったいどうなるのでしょうか」。こう聞かれると、とまどってしまう信者が多いようです。しかし、この質問に答えるには、コリント人への手紙第二の四章一六節から五章一○節までを考えるだけで十分です。その箇所を引用してみましょう。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」。
この箇所には非常に対照的なものがたくさんあります。私はそれらを十二に分けて指摘してみます。もっと細かく分析すれば、その数はさらに多くなるでしょう。
まず第一に、「外なる人」と「内なる人」が対照的です。「外なる人」は人の肉体的・物質的部分のことです。「内なる人」は人の精神的・霊的部分のことです。唯物論(訳注:物質を根本的実在とし、物質から離れた霊魂を認めず、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え)を唱える者たちは、人間が精神的・霊的な実在でもある事実を否定しますが、五章一○節はそれを断言しています。