姉妹のかぶり物と神の栄光
ピーター・ウィー著
目次
Ⅰ.序
A.実践しない理由
B.かぶり物への賛同
Ⅱ.コリント人への手紙第一の新たな考察
A.語義――「栄光」と「栄光を帰する」
B.不品行と悪習――そして「神の栄光」
Ⅲ.「神の栄光」と「人間の栄光」
A.「かしら」の問題
(1)語義――「男」と「女」
(2)従属に関する疑問
B.象徴
(1)かぶり物をしない男の頭
(2)かぶり物をした女の頭
C.かぶり物の目的
(1)栄光の表現
(2)かぶり物をしない男の頭が「神の栄光」を反映する
(3)かぶり物をした女の頭が人類の“堕落後の栄光”を反映する
D.理由――なぜ男は「神の栄光」を、女は「男(人間)の栄光」を反映するのか
E.男女の相互依存――「創造」と「出産」
F.実践の重要性
G.女の個人的な栄光
H.確立された習慣
Ⅳ.実践的考慮
A.女性の役割
B.男性の役割
C.長老の役割
Ⅴ.結論
Ⅰ.序
新約聖書の中に、(一部の信者たちによって)無視され、あるいは否定され、目を向ける価値がないものとして扱われてきた箇所があります。「騒ぎになるような論争が起こっては困るから」というのが、その理由の一つでしょう。また、「この箇所の教えは、もはや、今日の信者の信仰生活には関係がない」というのも、その理由の一つでしょう。女性たちは、その教えが男性に対する「服従」と「下位」を表すものとして、その命令を拒否するかもしれません。長老を始め、指導者の中には、この問題を率直に話し合うことを避け、その教えが存在しないかのように、この箇所を取り扱っている人もいます。それどころか、この教えが正当かつ妥当なものなのかどうか、その根拠や効力に疑問を抱いている人すらいるのです。しかし、この箇所の教えは、聖書全体の中で不可欠なものであり、神の民の集まりにおいては重要な意味を持っています。そのために、聖霊により霊感を受けて、パウロがこの箇所を書き記したのです。
私が言っているのは、コリント人への手紙第一の一一章二-一六節のことです。私たちは、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモテ三・16、17)というみことばを信じているのですから、この箇所を、祈りをもって注意深く学び、一つの結論に達するべきでしょう。すなわち、「主の命令に従う」のか、それとも「主の命令に従わない」のかということです。あなたはこの命令を、パウロの「男性優越主義」を示す不当な要求の一例とみなして拒否しますか。あるいは、この命令を、からだなる教会の初期の信者だけに限られた時代遅れの慣習――パウロが生きた時代、活動した範囲だけに限られたものであり、科学技術が進歩した現代では不要なもの――とみなして無視しますか。
姉妹は礼拝の時間や祈り会、伝道集会などの際に、頭にかぶり物をすることによって、この命令に従うべきであり、逆に、兄弟はかぶり物をしないことによって、この命令に従うべきだと、非常に多くの集会(assembly)で信じられています。しかしながら、そう信じている信者たちも、「聖書にそう書いてあるから」という理由だけでその命令を実践している人が多いようで、その本当の理由は十分に理解されていないようです。