神の集会への受け入れ
――聖書はどう語っているか――
W.バンティング
目次
神の集会への受け入れ
前置き
パリサイ主義的傾向や党派心の危険性
聖書以外の規則を作り出す危険性
私たちの理由
一、初めて集会を訪れた人の場合
二、友人を招く場合
三、たまにしか来ない信者
四、まちがった教えを持ち込む信者
五、受け入れは常に集会へ
誤った信仰
家族としての集会?
罪にならないこと
聖書に書いてないからという理由
宦官の場合
アポロの場合
トロアスに集会があったか?
ただ一つの交わり
決まった形はない
推薦状について
有名な働き人の場合
提案
集会への愛と忠誠
賢明で信仰深い長老たち
サタンのささやき
聖書に帰れ
神のくださる報酬
神の集会への受け入れ
クリスチャンをどのような形で集会へ受け入れるかという問題は、ときどき論争の的になります。「キリストの御名を告白する者は、たとえ神のことば(たとえばバプテスマについて)に従う意志を確認できなくても、また、非聖書的なキリスト教組織に属している人であっても、例外なく主の晩餐に迎えるべきである」と強く主張する人がいます。交わりの土台はキリストにある「いのち」にあずかっているかどうかですから、そのいのちを内に持っていると告白する者は、その生活が道徳的に清く、基本的な教理に照らし合わせて健全であれば、ひとり残らずパン裂きに受け入れるべきだと主張するのです。
この考えを唱える人は、「これに反することを行っている信者は非聖書的であって、その厳格さが集会への神の祝福を妨げている」と断言します。彼らは私たちに「心を柔軟にし、集会の門戸を開放して、すべての信者を受け入れよ」と要求します。
私たちはこの小冊子に、この意見に賛成できない理由を述べました。同時に、この問題について聖書がどう教えているかということを、私たちの確信に基づいて書き記したいと思います。主がこの小冊子を用いてくださいますように。このやっかいな問題に悩まされている信者の心に、平安が与えられますように。そして、信者が「私たちの間ですでに確信されている」真理をしっかり自分のものにできますように、お祈りいたします。