神学校問題への提言
諸集会の間に「聖書に反する方法」が広まることへの警告
マイケル・ブラウン著
最近、「聖書を教える機関」が私たちの間に増えてきている(それらは地域集会とは全く別個に設けられたものである)。しかし、諸集会に所属している兄弟たちの多くは、そのことに何の危険も感じていない。彼らは、若くて有望な兄弟たちの啓発や成長に関心があり、そのような機関を、そうした目的を達成するための一手段とみなしているのである。
彼らは、諸集会がそのような「啓発的かつ組織的な聖書の学び」を提供していないことにしばしば気づく。その結果、集会とは別に設けられたこのような「学校」が、たとえ理想的なものではなくとも、少なくとも「容認できる選択肢の一つ」であると考えるのである。長老たちも、様々な理由から、集会で必要とされている学びを提供していない。そして、このような教育機関に、自分たちが苦境を脱する安易な道を見いだす。そうして、その件における自分たちの責任を、そうした聖書学校に譲り渡すのである。しかも、驚いたことには、しばしば喜んでそうするのである。
堕落というものが常にそうであるように、最初のうち、その変化はゆるやかなものである。しかし、少しずつその欠点が黙認されるようになり、やがてついには、あって当たり前のものとなる。ひとたび既存のものとして受け入れられると(特に、神学校が今ほどなかった時代を知らない人々によって受け入れられると)、そのときには一定の傾向ができあがり、そのしたたりが小さな流れとなり、やがてはその小さな流れが一つの川となる。そして、ついにはその川は激流となり、その力の前に何者も抗し得ないようになる。今日の諸集会は「聖書を教える機関」という問題に関してこのような状況に近づきつつある。
その傾向が進むにつれて、抗議の声を張り上げる人々も次第に少数派となり、やがて彼らは「極端な人たち」のグループとして孤立する。彼らは「伝統主義者」の烙印を押され、その時代遅れの理想主義は今日の「現実の」世界では実現不可能だと決めつけられる。そのとき、彼らはかつての預言者たちのように、人々をいらだたせる原因となり、しばしばあざけりの対象となる。そしてついには「荒野で呼ばわる者の声」となる。それは世に入れられない改革者の叫びである。その声に耳を傾ける者など一人もいないのだ!
神学校には聖書的根拠が全くない
しかしながら、私たちの抗議は、かつてのイスラエルの預言者たちと同じ動機から発したものである。彼らは、イスラエルの民がみことばと神の道に背いていることに抗議した。私たちは、新約時代の諸集会の型に従ってきたが、集会とは別個に教育機関を設ける必要を感じたことは一度もなかった。このような機関を正当づける聖書的根拠が全くないことは確かである。新約聖書から十分に明らかなように、使徒たちの時代の初代教会における教えや学びはすべて、地域集会の内部にいた忠実かつ賜物のある兄弟たちによって与えられたのである。これらの兄弟たちは、キリストご自身がからだなる教会に与えてくださった賜物であった(エペソ四・8-13)。彼らは聖霊によって立てられた指導者たちだった(使徒二○・28)。その当時は熱心に伝道する集会が次々に誕生していった。しかし、教えや権威の「中心」となるものは、地域集会以外には何一つなかったのである。