サムエル記
旧約聖書講解シリーズ
A.マクシェーン著
目次
前書き
サムエル記第一に描かれた牧会の原則
サムエル記について
預言者サムエルの誕生(一章1節-三章21節)
契約の箱の移動(四章1節-七章2節)
さばきつかさサムエル(七章3-17節)
サムエルに代わるべく選ばれた王サウル(八章1節-一二章25節)
サウルの統治と王位剥奪(一三章1節-一五章35節)
ダビデの油そそぎとサウルの王宮への召し(一六章1節-二○章42節)
「無法者」としてのダビデの暮らし(二一章1節-二七章12節)
サウルと息子たちの死(二八章1節-三一章13節)
サムエル記第二に描かれた牧会の原則
序論
サウルの死の報告とヘブロンにおけるダビデの統治(一章1節-四章12節)
ダビデによる全イスラエルの統治と彼の繁栄(五章1節-一一章1節)
ダビデの大きな罪とその悲しい結果(一一章2節-一四章33節)
アブシャロムの反乱と死(一五章1節-二○章26節)
終わりの補足(二一章1節-二四章25節)
前書き
世には「不法」がはびこりつつある。高い地位にある人々は、この急速に広まりつつある「疫病」の治療法を考え出そうと心を砕いている。しかし、聖書に精通している人々は、「不法の人」(Ⅰテサロニケ二・3)が出現する時までこの病が広がり続け、まことの支配者なるキリストが御座に着かれるまで、決して根絶やしにされないことを知っている。
この世の霊が、しばしば聖徒の諸集会にまで侵入しており、この「集会という神の領域」ですら不従順の証拠が見いだされる。「主の御名のもとに集っている」と主張している信者の中にも、自分たちは好きなようにふるまうことができ、「自分の目に正しいと見えること」(士師記二一・25)を行う自由がある、などと心の中で考えている者が少なからずいる。しかし、新約聖書の書簡、特にテモテへの手紙第一を見れば、神の家――地域集会――が長老(監督)たちによって秩序が保たれるべきであり、聖徒たちはその働きのゆえに彼らを尊敬すべきである、ということは一目瞭然である。監督(長老)たちは神の家を治めることに関して主に対して責任を負っているのである。
サムエル記第一にはイスラエル王国の初期の歴史が記されており、実際には、この書巻から「列王記」が始まると言ってもよい。「万軍の主」という神の称号も、この書巻に初めて登場する。この称号はサムエル記第一の特徴を反映している。天の軍勢を治められるお方は、ご自分の代わりにだれかが地上で御民を治めるよう期待しておられるからである。
かつて、イスラエルの盛衰がその指導者たちによって大きく左右されたのと同じように、それぞれの集会の盛衰も、そこで責任をとっている者たちによって決まる。したがって、集会の発展のためには敬虔な指導者の存在が不可欠である。あらゆる時代を通じて、霊的な信者はこのような指導者の必要性を痛感してきた。しかし、特に近年、この必要性はいっそう痛切なものとなっている。それは「時代精神」(訳注:神に敵対している社会的な風潮、不敬虔な雰囲気)のためであると同時に、この働きに伴う犠牲があまりにも大きいからである。本書に書き記した注釈や教訓が、本書を読まれる方々に、特に、聖徒たちを牧するため神に訓練されつつある方々や、すでに責任を担っておられる方々に、わずかなりとも役立てば、この書物を書くために費やした時間が無駄でなかったことになるだろう。
アルバート・マクシェーン