ヨハネの黙示録
新約聖書注解シリーズ
J・B・カリー
一節ごとの詳しい解説
まえがき
聖書の最後の書、「ヨハネの黙示録」は、多くの信者にとって、もっとも理解しにくい書巻です。そのため、聖書をよく読む人でも、黙示録には注意を払わないことが多いのです。黙示録があまり学ばれないもう一つの理由は、黙示録の内容をどのように説明すべきかについて、多くの注解者たちの意見が異なっているからかもしれません。昔よく使われた方法の一つに(私の考えでは、その方法はまったく役に立たないものですが)、黙示録に書かれていることの多くを象徴とみなす方法がありました。その結果、それらの象徴が何を意味するかについて、それぞれの注解者が独自の考えを持つようになりました。それらの考えを判断する決定的な基準がないため、実にさまざまな解釈が可能となり、混乱を引き起こしたのです。
神が黙示録をお与えになったのは、未来の出来事に関するご自分のみこころを明らかになさるためでした。物事を明確にするためであって、あいまいにするためではありません。ですから、私は、聖書の他の箇所を説明するときと同様、この黙示録を解釈するときも、「用いられていることばを、その文字どおりの意味に取る」という原則にできるかぎり従いたいと思っています。そのことばが明らかに象徴的な意味で用いられている場合は、まず黙示録そのものの中に、次に聖書の他の箇所に、その意味を説き明かす鍵があると考えるべきでしょう。
黙示録の注解書を出そうという試みが発行にまでこぎ着けたのは、まず、玉穂集会の望月初男兄による熱心な働きと忍耐によるものです。この本は、東京の大京町キリスト集会所で、二年以上かけて学んだ二十四回の学びをテープ起こししたものが基になっています。そのような機会を与えてくださった大京町集会の皆さまに心から感謝いたします。ただ、口頭での学びは、本にするために書かれた学びとはまったく違うものですので、このようなかたちで出版することに、私は気が進みませんでした。本らしい体裁にするために、府中集会の森田寿子姉、植杉砂織姉、および伝道出版社編集部にも、さらに多くの時間を割いていただくことになってしまいました。このような方々のご愛労がなければ、本書が発行されることもなかったでしょう。もちろん、この本に何らかの落ち度があれば、それはすべて著者である私の責任です。
お読みいただければすぐに分かることですが、この学びは学問的なものではありません。聖書原典の「本文批評」や、論争の的になるようなことは考慮に入れていません。目的は、最初から、一般の信者が、黙示録というとてもおもしろい書巻を、とにかくざっと理解できるようにというものでした。そのためには、あまり詳しく掘り下げすぎると、かえって興味を失うかもしれません。本書は、黙示録を学ぶ機会のない方々の手助けをするものであり、少しでもその目的を達成できればと願っています。
本書が出版されたからには、主がご自分の栄光のために本書を用いてくださり、本書を読まれた多くの方々が、堅く信仰に立って、この悪の時代に立ち向かうことができるように、というのが、私の切なる願いと祈りです。聖霊の力により、黙示録をさらに理解することは、そのために大いに役立つことでしょう。
二〇〇三年 九月
東京・府中市にて
ジェームズ B・カリー
目 次
まえがき
概略
一章 序文とキリストの幻
二章 七つの集会への手紙 (1)
三章 七つの集会への手紙 (2)
四章 天の御座
五章 小さな巻物とほふられた小羊
六章 最初の六つの封印が解かれる
七章 印を押された十四万四千人の証人たち
八章 第七の封印――四つのラッパが鳴り響く
九章 第五のラッパと第六のラッパ
一○章 小さな巻物を持った御使い
一一章 ふたりの証人と第七のラッパ
一二章 地上に投げ落とされた悪魔とその使いども
一三章 海からの獣と地からの獣
一四章 十四万四千人の歌‥バビロンの崩壊
一五章 七つの災害――神の激しい怒り
一六章 七つの怒りの鉢
一七章 バビロンに関する奥義
一八章 バビロンの崩壊を嘆き悲しむ人々
一九章 小羊の婚宴とキリストの再臨
二○章 サタン、千年の間縛られる~大きな白い御座
二一章 新しい天、新しい地、新しいエルサレム
二二章 永遠の状態と最後の招き
概 略
まず、黙示録の一章一節から数節だけを取り上げて、黙示録全体の内容について考えてみます。そして、導かれるまま、この興味深い書巻を一章ずつ取り扱っていきましょう。
私が救われたころ、私の属していた集会の火曜日の集まりで、二年にわたって黙示録が学ばれました。救われたばかりの私は、その二年間、毎回出席して、兄弟たちの学びを熱心に聞きました。今でもその内容をよく覚えています。あのころの兄弟たちの考えと、現在の私の見解とはかなり違っていますが、当時、二年にわたって黙示録をかなり詳しく学んだことが、この概略および、この注解書の土台となっています。
では、一章一節から八節までを取り上げて、黙示録の概略を述べてみましょう。
1-3節 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(4-8節を省略)
新約聖書の中で、「預言のことば」、あるいは「預言の書」と呼ばれる書巻はただ一つ、この黙示録だけです。旧約のダニエル書と新約の黙示録はどちらも重要な預言書であり、よく調べてみなければなりません。旧約の預言書の中で、ダニエル書が重要な事柄を取り扱っているのは確かです。この書は、終わりの時代に起こることを、前もって詳しく教えています。この書の重要性は、ある人々が、「預言のことば」をはっきり理解するためにはダニエル書の奥義を究める必要がある、と考えていることからも明らかです。
けれども、ダニエル書とこの黙示録(イエス・キリストの黙示)には、大きな違いが一つあります。ダニエル書の一二章四節と九節に書かれているように、この書は「封じられた」書物です。当時の人々は、ダニエル書の預言がどのような意味か、はっきり分からなかったようです。分かるはずがありません。ダニエル書のことばは、「終わりの時まで、秘められ、封じられて」いたのですから。
一方、「イエス・キリストの黙示」については、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである」と書かれています。このことから、「イエス・キリストの黙示」は、すべての人が読み、その意味を理解するために与えられた書物であることが分かります。黙示録は、ダニエル書のように、秘められ、封じられた書巻ではなく、読者が意味をよく理解できるように書かれた「黙示(啓示)」なのです。
しかし、次のように考える人もいるでしょう。「黙示録に関しては、さまざまな見解、異なった解釈がたくさんある」と。確かにそのとおりです。では、なぜさまざまな解釈があるのでしょうか。
この黙示録は、神の啓示の完成を示す書物です。創世記で始まったものすべてが、この黙示録で完成されます。ただ、すべての人がこのように考えているわけではないので、黙示録についての解釈も違ってくるのです。
たとえば、「聖書はすべて神から与えられたものであり、神のみこころを示すものであり、まったく誤りのないことばである」と信じている人は、黙示録に関して非常に明確な見解を持っています。すなわち、「黙示録は神の啓示の一部であり、前もって未来を語るものである」というのがその見解です。
けれども、「聖書はイスラエルの民のために書かれた書物であり、イスラエルの歴史や文化をよく語ってはいるが、ただそれだけで、特に不思議な書物ではない」と信じている人は、とてもそんな見解を持つことはできません。多くの神学者が、黙示録に関して非常に極端な意見を持っているのはそのせいです。そればかりか、彼らは昔からキリスト教界に多大の影響を及ぼしてきました。これも黙示録の解釈をむずかしくしている理由の一つです。
このように、聖書そのものをどのように取り扱うかによって、黙示録の解釈も異なってくるのです。私たちは、この黙示録を、「神のみこころを示す、神の啓示の一部である」と堅く信じています。
いわゆる「福音派」の信者たちも、黙示録について大筋では同じように考えていますが、彼らの中にも、大きな考え違いをしている人たちが昔からいます。彼らは、「イスラエルの民に未来はない。彼らが神の選民として回復されることも、神が再び彼らを特別扱いなさることもあり得ない」と信じているのです。特に教派に属している信者たちの中に、次のように考えている人たちがたくさんいます。「千年王国というのは、文字どおり千年続く王国のことではない。それは、現在、クリスチャンたちの心の中にある主イエス・キリストの王国か、あるいは永遠の王国を意味している。千年ということばを文字どおりに取る必要はない。それは非常に長い期間、すなわち、永遠を意味しているのだから」。
そこで、彼らは次のように言うのです。「黙示録に記されていることは、すでに実現したか、いま実現しつつあるかのどちらかであって、未来の事柄はほとんど記されていない」と。本物の信者の中にも、このように信じている人たちがいるのですから、聖書を神のことばと認めていない神学者たちが、預言的な意味を否定するのは当然のことです。彼らは聖書の中に、神の力、奇跡的な力を認める必要はないと考えているのです。「これは文学だ。すばらしい文学には違いないが、しょせん文学にすぎない」というのが彼らの考えです。
さらに、本物の信者、福音をはっきり信じている信者(彼らの多くは教派に属している)の中にも、「イスラエルには幸いな未来はまったくない」と信じている人たちが少なくありません。したがって、黙示録に対する彼らの意見もかなり違います。
このような人たちに、「では、旧約聖書にはイスラエルに対する約束と思われるものがいくつもありますが、その約束はどうなるのですか」と尋ねてみてください。きまって、「その約束は霊のイスラエル(すなわち教会)によって実現されます」という答えが返ってきます。彼らは「霊のイスラエル」とか「霊的イスラエル」とかいうことばをよく口にします。
このようなわけで、黙示録の注釈をしようとする人がどのような考えを持っているかに十分注意しなければなりません。聖書そのものに対する考えによって、黙示録の解釈も違ってくるからです。
「読んでも分からない」「意味が分かりにくい」という理由で、多くのクリスチャンが黙示録を読むのをためらっています。黙示録を注意深く読もうとしないのも同じ理由からですが、これは非常に残念なことです。一章三節に記されているとおり、この書を朗読する者には幸いが約束されているからです。
言うまでもなく、三節の「朗読する」ということばには当時の時代背景があります。第一世紀においては、聖書を手にすることのできない信者が大勢いました。印刷技術の発達はまだまだ先のことですから、各自が自分の聖書を持っていたわけではありません。そのころは、聖書は巻き物のかたちで、各集会が所有しているのが普通でした。そして、信者たちが集ったときに、ひとりの信者が立ち上がり、その巻き物を開いて全員の前で朗読したのです。「イエス・キリストの黙示」を朗読した者と、それを一心に聞いた者、また、それを聞いて、その内容にふさわしい生活をした信者たちは幸いでした。これが三節の意味です。
私たちは現在、自分の聖書で黙示録を読むことができます。これも同じように幸いなことです。読むだけでなく、そのことばをよく「聞き」、それに従うべきです。そうすれば、三節のみことばが私たちの生活の中で必ず成就します。
一節の「黙示」ということばからも、この書巻の本質が分かります。今まで語られていなかったこと、示されていなかったことが、今は示され、長い間隠されていたことが、今は現されています。「黙示(啓示)」ということばの中に、この書巻の本質が表されているのです。