ルカの福音書 11~24章
本文より抜粋
大いなる三部作(ルカ15・1~32)
この章を学び始めると、必ず畏敬の念を抱いて驚嘆するが、同時に、尊き福音の真理の豊かさを喜ばずにはいられない。すでに述べたように、主はしばしば二つのたとえ話を用いて一つの真理を強調しておられるが、ここでは三つのたとえ話を用いておられる。
そうすることによって、失われた者がどのように見いだされるかというすばらしい真理を、すべての人の心に焼きつけておられるのである。
ルカの福音書の鍵となる次の聖句が、ここに余すところなく描かれている。
『ルカ19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』
主題は「失われた者の救い」であって、迷い出た信者の回復ではない。
しかし、信者の回復という観点で語られたとしても、無理に反論する必要はない。
いちばん良いのは、みことばがその富の豊かさを語るに任せることであって、読者が何に適応するかは聖霊の働きにゆだねるのである。
四 エルサレムへの旅(九・51‐一九・27)
10 祈りに関する教え(一一・1‐4)
福音書で提示され、新約の書簡で確立されている真理はたくさんある。使徒の働きの一章一節に「イエスが行い始め、教え始められたすべてのこと…」と記されているように、新約聖書をとおして教義が発展することには確かな裏づけもある。そのような教義の中には、祈りというテーマも含まれる。それにもかかわらず、一般に「主の祈り」と呼ばれているものを最終的な教えとみなしている人が多いのは、非常に残念なことである。この章では、「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ一一・9)と、祈りに関する基本的な原則が教えられている。主が去って行かれたあと(ヨハネ一六・16‐22)、弟子たちは主の名によって求めなければならなかったが(同23‐28節)、主がともにおられたときは、そうではなかった(同24節)。主が去って行かれると、「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです」(同26節)とあるように、彼らの祈りに変化が生じることになる。これは非常に重要なことである。このとき弟子たちは主から祈りを教わったが、主が昇天されてからは、彼らの祈りに新たな特徴が加わったのである。
そのあと新約聖書で教えられているのは、信者が祈りと礼拝をささげるために、垂れ幕の内側に入って神の御前に近づくことである(ヘブル一○・19‐22)。私たちは、「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に」近づくことができるのである(同四・14‐16参照)。この特権が私たちのものとなったのは、神の御子が「もろもろの天を通られた」(同14節)からである。福音書に出てくる祈りのひな形は、主がまだ地上におられたときのものである。これは祈りに関する最終的な教えではない。また、ヨハネの福音書で主ご自身が教えておられる手本とも一致しない。
この祈りは、「主の祈り」ではなく「弟子の祈り」と呼ぶべきものであり、しかも、教会時代の信者が、このとおりに繰り返し唱えなければならないものではない。それどころか、主は、この祈りを教える前に、「異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません」(マタイ六・7)と命じられた。パウロは、「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ四・6)と教えたが、傍点を施したことばは、新約聖書でよく用いられているものばかりである。しかし、「主が弟子たちに教えられた祈りのことばを繰り返し唱えるように」とは、新約の書簡の中の、どこにも命じられていない。
1節 主イエスはあらゆる徳と恵みに満ちておられるので、祈りに関しても最高の模範である。主は、バプテスマをお受けになったときに祈られた(ルカ三・21)。弟子たちをお選びになったとき(同六・12)、ひとりでおられたとき(同五・16、九・18)、だれかがそばにいたとき(同九・28)も祈られた。そして、ゲツセマネの園でも(同二二・41)、十字架の上でも(同二三・34、46)祈られた。その祈りに感動した者たちは、自分も祈るように心動かされた。主はこの場面でも祈っておられたが、その祈りが終わったとき、ある弟子が「私たちにも祈りを教えてください」と願い求めた。ここでは、祈りの方法や主題、形式や言葉遣いではなく、祈りという行為そのものに重点が置かれている。祈り方は知っているのに、まだ「祈りの人」になっていない、ということもあり得る。ヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えたという記録は、ほかにはないが、その証拠は、この節に記録されているということだけで十分である。敬虔(けいけん)な人々がみな、そうであったように、ヨハネも祈りの人であり、彼の弟子たちはその模範から学んだのである。
本書では、補遣として「悪霊」「パン種」「聖書で地獄を表す単語」
旧約聖書 「シェオル」、「ケベル」
新約聖書 「ハデス」、「ゲヘナ」、「アビュッソス」、「タルタロス」、
「よみがえられたキリストの顕現」が記されています。