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試し読み:キリスト(ハリストス)とクリスチャン(ハリスティアノス)
キリスト(ハリストス)とクリスチャン(ハリスティアノス)
ギリシャ語で書かれた旧約聖書70人訳では、救世主ということばをハリストス、すなわち「油を注がれたもの」と訳しています。これは、聖なる油を注がれた祭司たち、とくに大祭司に対して使われることばでした。レビ記4章3節・レビ記4章5節・レビ記4章16節をご覧ください。
「もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。」(レビ記4章3節)
「油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持ってはいりなさい。」(レビ記4章5節)
「油そそがれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持ってはいり、」(レビ記4章16節)
預言者たちは、ホイ・クリストイ・テオウと呼ばれ、これは「神によって油をそそがれたもの」を意味します。詩篇105・15を参照にして下さい。
「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」(詩篇105・15)
イスラエルの王は、ときどきクリストス・トウ・クリオンといわれました。
「主によって油そそがれたもの」という意味で、サムエル記第一2章10節・サムエル記第一2章35節・詩篇2篇2節・詩篇18篇50節・ハバクク書3章13節などに出てきます。
おもしろいのは、イザヤ書45章1節で、「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。」クロスがこの称号をつけられていることです。
キリストに冠詞がつくとホ・クリストス、すなわち「あのキリスト」というような意味になりますが、70人訳には出てきません。
新約聖書では、この冠詞つきのキリストという単語がしばしば使われていますが、主イエス・キリストのことを、例えば「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」(マタイの福音書2章4節)
「 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」(使徒の働き2章31節)
などでは、称号というより名称、呼び名という感じで表現しています。
ルカの福音書2章11節・ルカの福音書23章2節・ヨハネの福音書1章41節では、冠詞が省かれています。
主イエスご自身が、明白にご自分がこのキリスト、油を注がれたものであると認められた記録は三ヶ所です。
「するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』」(マタイの福音書16章17節)
「しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、
さらにイエスに尋ねて言った。『あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。』そこでイエスは言われた。『わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。』」(マルコの福音書14章61-62節)
「イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」(ヨハネの福音書4章26節)
この「油を注がれたもの」という呼び名はしばしば、ギリシャ語原典では主の個人的な名前につけられていますが、新改訳聖書では、イエス・キリスト、あるいは単にキリスト、さらにキリスト・イエスというふうに訳されています。
原語では冠詞がつく場合も、つかない場合もありますが、日本語訳ではその区別はついていないようです。
どちらかというと冠詞がつくときは主語で、主イエスが「油注ぎを受けたお方」であると強調する感じ、冠詞がないときは述語の中で信者との関係において出てくることが多いように思われます。
語順でいうと、ガラテヤ人への手紙2章16節で二回「キリスト・イエス」と出ている訳が原典に近いのですが、
「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ人への手紙2章16節)
「イエス・キリスト」と逆に使っている使徒の働き9章34節・コリント人への手紙 第一3章11節、「ペテロは彼にこう言った。『アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。』すると彼はただちに立ち上がった。」(使徒の働き9章34節)
「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(コリント人への手紙 第一3章11節)
ただ「キリスト」だけを使うマタイの福音書11章2節・ローマ人への手紙7章4節などさまざまです。
「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、」(マタイの福音書11章2節)
「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」(ローマ人への手紙7章4節)
自分は油注ぎを受けたイエスであると主イエスが話された記録として一回だけヨハネの福音書17章3節がありますが、そこは、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネの福音書17章3節)となっています。
ハリスティアノスは、「キリストつき従うもの」というローマふうの合成語で、
異邦人たちが最初に使ったようです。使徒の働き11章26節・使徒の働き26章28節・ペテロの手紙第一 4章16節で、「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒の働き11章26節)
「するとアグリッパはパウロに、『あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。』」と言った。(使徒の働き26章28節)
「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」(ペテロ第一の手紙4章16節)と、出てきますが、どうも信者たちは最初からこの名を自分たちのものとして受け入れたのではないようです。
ペテロの手紙第一 4章16節では(ペテロの手紙第一 4章12節から16節をお読み下さい。)人殺し、盗人と同じような立場で苦しみを受ける、というふうに読めますし、アグリッパ王が使徒の働き26章28節で言っている、「あなたは、わずかなことば(あるいは短い時間)で、私をキリスト者にしようとしている。」という言い方の中には、異邦人たちがそう呼んでいる(蔑称)クリスチャンなんぞに私をしようとするのか、という非難がこめられているようにとれます。
1世紀末のローマの歴史家タキトゥスは、「賊民たちは彼らをクリスチャンと呼んでいる。その一派の開祖キリストは、テベリウス帝のとき、総督ポンテオ・ピラトによって処刑された。」と書かれています。
信者たちがこの名を名誉ある名と受け入れるようになったのは2世紀以降のことです。
試し読み:セラ(詩篇)
セラ(詩篇)
A・O・モルスワス
詩篇にたびたび出てくる「セラ」ということばは、音楽の記号の一つで、「休め」とか「ちょっと休止せよ」という意味です。ところで集会(教会)生活もクリスチャンの生活も、「それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」(詩篇45・7)方に、よって作られた詩篇のようなものです。この観点から「セラ」ということばを考えると、いくつかの有益なことを教えられます。
どんなクリスチャンの生活にも、「休む」あるいは「ちょっと休止する」ことは起こります。それは病気を通して来るかも知れません。病気になると、家族からも、仕事からも、毎日の家事からも解放されるからです。こうして「セラ」が訪れたとき、驚いてはいけません。
偉大な作曲家である神が「セラ」の記号を書かれます。神は、私たちの生涯という詩篇を完成させるために、それがいつ、どこに必要であるかをご存知だからです。「セラ」のある所に来たら、たとえつらくとも、それを書かれたのは「作曲家」であることを覚えて下さい。
「セラ」は音楽の一部です。
私たちは「音」だけが音楽だと思うかも知れませんが、しばしば、「休み」は和音と同じくらいに効果的なのです。ですから、「休まなければならない」状態になったとき、これも音楽の一部であることを覚えれば慰められるでしょう。
「セラ」は、歌い続ける者にとってはなんの妨げにもなりません。もし私が「ちょっと休まなければならない」なら、その分、他の人の歌声が目立って、その詩篇はいっそう美しくなるでしょう。 同じように、自分がなんらかの事情で働けないときは、他の人が集会と家庭の仕事を代わってくれるのですから、休みを与えられた私たちは喜んでいいのです。
「セラ」の部分に来たからといって、ぼんやりしていてはいけません。歌うのを休んでいる歌い手も、依然としてその楽団の一員です。ですから、休んでいる間も、音楽に合わせて拍子をとりながら、他の人との調和を保ち、その調和を楽しんでいます。同じように、休みの時は、私たちに与えられた「休み」の時を数えながら静かに考える時であることを忘れないで下さい。
「自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90・12)
「セラ」によって休みを与えられた人は、こんどは無性に働きたくなります。病気で寝ている人や退職した人を見ると、それが良くわかります。しばらく休んだ人は、「やっぱり私の声も必要だ」と思って、また歌に参加するのです。
歌い手は、「セラ」の記号がどこにあるか、楽譜と指揮者に目を注いでいなければなりません。そうでないと、ちょうどよい時に休めないからです。
愛する神の子よ。主が「休め」と命令なさったらただちに休んで下さい。私たちの生涯を導かれる指揮者は、新しいスタートのために、ご自分に目を注いでいる者に必ず合図を与えて下さいます。
主が指揮者であるのなら、休みを意味する「セラ」も、調和した音を出す「奉仕」も、ともに美しい音楽をかなでるに違いありません。
試し読み:地獄(ハデスとゲヘナ)
地獄(ハデスとゲヘナ)
A・F・ミーアズ
新約聖書に、死後の世界を示す二つの単語 があります。
A.ハデス。
ギリシャ語訳の旧約聖書ができたとき、へブル語のシェオルはハデスと訳されました。 このふたつの語は,根本的には同じ意味です。
日本語では,シェオルは「よみ」と訳さ れています(ヨブ26・6など)。
「よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれない。」(ヨブ記26・6)
聖書の教え
ハデス(シェオル)は地球の真中(マタイ 11・23〉、「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」
または海の下にあると考えられていました(ヨブ26・5)。
「死者の霊は、水とそこに住むものとの下にあって震える。」
キリストの昇天前には,すべての死者(義人も不義なる人も)はハデスに行きました(詩89・48~49)。
「いったい、生きていて死を見ない者はだれでしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう。セラ 主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。」
そのハデスは三つに分かれていました。
苦しみもだえる所であるハデス。パラダイス(アブラハムのふところ)であるハデス。底知れぬ所(大きな淵)であるハデスです。
(1)苦しみもだえる所であるハデス。
神の大いなる白い御座でのさばきを待つ間、キリストを救い主と信じない者はここで苦しんでいます(ルカ10・15,16・22,23,黙 20・13,14)。
「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスにまで落とされるのだ。」(ルカ10・15)
「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」(ルカ16・22~23)
「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」(黙示録20・13~14)
(2)パラダイス(アブラハムのふところ)であるハデス。
聖徒たちはキリストが昇天するまで,パラダイスにいました。十字架の死からよみがえりまで,キリストご自身もパラダイスにおられたのです。すなわち,みからだが墓にあったとき(ルカ 23・43,使2・27,31)です。
『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』(ルカ23・43)
「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」(使徒2・27)
『それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。」と語ったのです。』(使徒2・31)
キリストは高い所に上られたとき,多くの捕虜を引き連れ (エペソ4・8),
『そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」』(エペソ4・8)
すなわちパラダイスから聖徒たちを連れて、ご自分とともに天国にいるようになさいました(Ⅱコリソト5・8)。
「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」(Ⅱコリント5・8)
(3)底知れぬ所(大きな淵)であるハデス。
上記の(1)と(2)の間にあって,互いに往来できません。(ルカ16・26)
「そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」
この場所は,悪霊のための牢です(ルカ8・31)。
「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」(ルカ8・31)
そして,千年の間,サタンが閉じこめられる牢ともなります(黙20・3〉。
「底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」
新約聖書の中のハデスは、「合い間」を示しています。ハデスはそこにいる者を出してから、ゲへナに投げ込まれます(然20・14)。
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
B.ゲへナ.
ゲへナとは,アラマイ語のゲ・ ヒンノム(ヒノムの谷)からきたギリシャ語です。ヒノムの谷はエルサレムの南方にあり,アハズやマナセの時代に,この谷の中で,モレクとタンムズの礼拝が行われ、(Ⅱ列23:10,Ⅱ歴28:3)
「彼は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした。」(Ⅱ列王23・10)
「彼は、ベン・ヒノムの谷で香をたき、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもたちに火の中をくぐらせた。」(Ⅱ歴代28・3)
そこで恐るべき幼児犠牲の儀式が行われたので罪と恐怖の代名詞となっていました(Ⅱ列王16・3,21・ 6)。
「イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。」(Ⅱ列王16・3)
「また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」(Ⅱ列王21・6)
後の時代になるとこの谷で,犯罪人や動物の死体が焼かれたようです。新約時代のヒノムの谷は、ごみ捨て場となり、うじは尽きることがなく火は消えることがない場所となっていました(マルコ9・48)。
「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
ユダヤ人の伝説によると,その谷は地獄の口と呼ばれ、旧約と新約の中間時代にはゲへナは神のさはきの場を意味していました。
聖書の教える地獄
新約聖書はハデスとゲへナを区別しています。
ハデスは,死からよみがえりまでの期間、イエス・キリストを救い主と信じない者を受け入れる苦しみの場所(ルカ16章の金持ちのいる所)であり、ゲへナは、白い御座のさばきのあと、彼らが永遠に苦しむ所(火の池)です(黙20・4から15)。
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
またハデスでは、不敬虔な者の魂だけがいます(ルカ 16・22~23)が、「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」
ゲへナでは体も魂も復活して、永遠の火の中に投げこまれます(マタイ5・29,10・28)。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(マタイ5・29)
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10・28)
ゲへナは本来、悪魔とその使いたちのために用意されたものです(マタイ25・41)。『それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」』(マタイ25・41)
ゲへナに最初に投げこまれるのは,獣とにせ預言者(黙19・20)であり、「すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」
千年後にはサタンが(黙 20・10)、「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
そして、最後に白い御座のさばきのあと、イエス・キリストを救い主と信じていないすべての者がゲヘナに投げ込まれます(黙20・15)。「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
クリスチャンは,ハデスもゲへナも恐れる必要はありません。信者が死ねば,すぐにキリストのみもとに引き上げられます(Ⅱコリント5・6~8,ピリピ1・23)。「そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」(Ⅱコリント5・6~8)
「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1・23)
クリスチャンはゲへナの苦しみから、永遠の滅びより、救いだされています(Ⅰテサロニケ1・10,ヨハネ3・16)。「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」(Ⅰテサロニケ1・10)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)
試し読み:慰め
慰め
羊飼いの慰め
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」 (詩篇23篇4節)
この節については詳しく述べませんが、心に留めておいてください。この節では、主のむちと杖が慰めを与えると書かれています。むちと杖は羊飼いが用いる道具であり、羊飼いを象徴するものです。羊飼いは、それらの使い方を知っています。このすばらしい詩篇によると、主が私たちの羊飼いです。ですから主は、私たちを慰める方法を知っておられます。
聖霊の慰め
それでは、使徒たちが書いた書簡に移りましょう。
「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」(使徒9章31節)
聖霊に「励まされて」と書かれていますが、この部分が「慰め」と同じ言葉です。この節には慰めについて、別の重要な側面が示されています。すなわち、慰めが聖霊と結びつけられていることです。聖霊が与える慰めがあります。これは、私たちすべてが経験できるものです。私たちの心を慰めることは、聖霊の働きであり、またみこころです。この働きは、私たち救われた者がみな、経験することができます。
聖霊は私たち一人ひとりのうちに内在しておられます。聖霊が私たちのうちに住まわれているので、私たちは聖霊の慰めを経験することができます。
聖書の慰め
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望をもたせるためなのです。」 (ローマ15章4節)
ここ の「励まし」が、「慰め」と同じ言葉です。詩篇と使徒の働きで見たように、私たちは羊飼いによって慰めを受け、聖霊によって慰めを受けます。この節には、聖書によって慰めを受けることが書かれています。ですから、わたしたちは聖書を毎日読みます。私たちは聖書を毎日読むことによって慰めを受けようとしているのです。
あらゆる慰めを与える神
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(コリントⅡ1章3~4節)
この節は説明を必要としないと思いますが、ここで使徒パウロは、神は、慰めの神であると言っています。神は、あらゆる種類の慰めを与えてくださるお方です。すなわち、神はあなたが個人的に必要としている慰めを与えることができます。
ですから、神のみもとにいけば、個人が必要とする慰めを見出す事ができます。もし、あなたが、お店に行って何かを買おうとして、「これこれの物をください。」と、言ったとします。店員が、「残念ながら置いてありません。」と、言うかも知れません。お店には色々なものが置いてありますが、それでもあなたが欲しいものはなかったのです。しかし、神のもとに行ったときには、そのようなことは決してありません。もし神のみもとに行って、あなたが必要としている慰めを求めたら、私の所にそれはないと、神は決しておっしゃいません。
おわかりでしょうか。神はつねにそれをお持ちなのです。神はすべての慰めを、お持ちのお方です。神はあらゆる種類の慰めを持っておられます。あなたの環境の中で必要とする慰め、また私の環境において必要とする慰めをお持ちです。神様は本当にすばらしいお方です。
イザヤ書40章 -完全なしもべ-
もう少しこの主題について、広い範囲で見たいと思います。イザヤ書40章を読みましょう。
「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。』」(イザヤ書40章1~5節)
このイザヤ書40章は、とても重要な章です。まず第一に、この章はイザヤ書の新しい区切りの始まりになっています。その区切りは40章から66章までで、主題はエホバの完全なしもべです。それはすべて、私たちにとって非常に興味深いテーマではないでしょうか。しかし、今回は慰めという主題に限ってお話ししたいと思います。
主イエスの預言
その前に、この40章はきわめて預言的な性格を持っている事に、一言触れて置きます。ユダヤ人がきらいな聖書の書物の一つは、イザヤ書であることをご存じでしょう。非常に熱心な一人のユダヤ教徒が、イザヤ書は読まないと言ったそうです。その理由は非常に明白です。
なぜならイザヤ書は、私たちの主イエス様についてとても多く語っているからです。イザヤ書を読む者はだれも、それが私たちの主イエス様について語っていることを知ります。ですから、私たちはイザヤ書が好きです。私もイザヤ書が好きです。40章は、主イエス様の最初の来臨を預言しています。そしてまた、主イエス様の再臨も預言しています。再臨の時には、主イエス様が栄光のうちに現されるのです。残念ながら、今回はこのことをお話しすることができません。
心にやさしく語りかける
それでは、最初の二節を考えましょう。ここでは、神がそのしもべに、神の民の慰めについて語るように言っておられます。神がそのしもべに、慰めについて語るようにと言っておられるのは、興味深いことではないでしょうか。今回はこの慰めというメッセージについてお話ししたいと思います。神は「慰めよ、慰めよ」と繰り返して言われました。それは、神の民が慰めを必要としていたことを示しています。
また、彼らは慰めを必要としていただけではなく、その慰めがただちに必要でした。神はエルサレムの民の心に語りかけるようにと言っておられます。私たちは頭脳に語り掛けがちです。
しかし、ここでは心に語り掛けるようにと、神は言っておられます。「優しく語りかける」というのは、とてもうるわしい言葉です。英語では「慰めるように」と訳されています。この言葉が旧約聖書のどこに出てくるか、コンコルダンスを使って調べてみてください。その例としては、創世記50章、士師記19章、ホセア書2章にでてきます。
平安のメッセージ
私たちが悲しみの日、困っている時に必要なものはなんでしょうか。私たちは、心にやさしく語りかけてくれるメッセージを必要とします。このメッセージは私たちに平安をもたらします。またそれは、私たちに許しをもたらします。私たちを慰めてくれます。
神の平安を楽しむのは、大変素晴らしいことです。それは、私たちの心を守るものとして働きます。ですから私たちは、神からの平安のメッセージを必要としています。それではこの個所は、私たちにどのようにあてはまるでしょうか。3節から8節をご覧下さい。神がどのようにしてこのメッセージを神の民にもたらそうとしたか、が書かれています。実はこれはバプテスマのヨハネによって成就されたのです。そしてまた、エリヤと呼ばれる者によって、将来もう一度成就されます。
敗北に対処する
イザヤ書40章4節をご覧ください。4節には、四つの重要なことが書かれています。私たちが助けを必要とする四つのことです。ですからこのことについて、注意深く説明したいと思います。
最初に「すべての谷は埋め立てられ」と書かれています。英語では、「谷が持ち上げられている」と訳されています。このみことばは、私たちに対して、どのような意味があるとみなさんは思われますか。この谷というのは、私たちの敗北の経験について語っていると考えて下さい。私たちは敗北します。私たちには、まだ罪の要素が残っています。ローマ人への手紙6章でパウロは「罪はあなたがたを支配することがない」と書きました。
しかし、私たちは、しばしば罪によって敗北をこうむるのです。私たちは敗北することを恐れます。私たちが聖書を読む時、私たちが祈る時、私たちが神様のために聖く生きようとする時、たびたび、私たちは失敗するのです。慰めのメッセージは、すべての谷が埋め立てられることです。みなさんも、神に対して責任を果たすことに失敗したという経験があると思います。慰めのメッセージは、神がその経験に対処することがおできになるということです。
神はそれに対処するのに豊かな力を持っておられます。ここでは、谷が埋め立てられています。すなわち私たちの失敗を神が埋めて下さるのです。
疑いの山を除く次に、「すべての山や丘は低くなる」と書かれています。山は疑いの山であると考えて下さい。私たちが、神に対する信仰を実行したいと考えたとします。
しかし、山が非常に高いように見えます。神がそれを除くことができると、私たちは信じられないのです。主イエス様は何と言われたのでしょうか。山に向かって、海に移れと言われたのです。みなさんは、私たちにはそれは不可能だと言われるかも知れません。
しかし、私たちの人生では、自分の力ではどうすることもできない色々な困難な状況が襲い掛かります。信仰でもって乗り切らなくてはいけないことが起こります。そして、信仰で持ってその状況に立ち向かおうとした時、それは山のように見えるのです。
私たちの心の中は、神に対する疑いでいっぱいになり、その問題から抜け出すことができないように勘違いしてしまいます。
しかし、ここに神のメッセージがあります。谷は埋め立てられ、山は低くされるのです。私たちの困難な状況は神によって取り除かれ、不信仰のゆえの失敗は、神が埋め立てて下さるのです。そして、私たちの目の前には平地が広がっています。
あざむきを解決する「盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる」(イザヤ書40章4節) 英語では「盛り上がった地は平地に」の代わりに、「曲がった道がまっすぐに」と訳されています。曲がりくねった道のことを考えて下さい。
もし、そのような道を運転するならば、見通しがきかないので、何が現れるかわかりません。もし、それがまっすぐな道ならば、対向車や障害物を見ることができます。私たちが曲がりくねった道を走っているのなら、見通しがきかないので、突然、対向車が飛び出して来ることもあります。
そして、事故に巻き込まれるようなこともあります。私たちの実際の生活において、そのようなことを経験します。私たちの人生に、私たちを悩ませ苦しめるような問題が起こります。私たちが、人生を見通すことができるのなら、その問題を避けることができたかも知れません。残念ながら、私たちは人生を見通すことはできません。私はそれをあざむきと呼びます。私があなたと生活を共にするのなら、私もあなたも互いに信頼するこを望みます。
しかし、私たちの人生では、信頼する相手にあざむかれるという事態が起こります。その結果、私たちは落胆し、絶望に陥ります。
曲がりくねった道を運転していても、私たちには先が見えないので、犬が予期しない時に当然飛び出してきてぶつかるかも知れません。人生も同じようことが起こりえます。この人は絶対に信頼できると思っていた人に、突然裏切られたり、あざむかれたりします。それが私たちの人生です。主は、そのような曲がりくねった道をまっすぐにするといわれました。
壊れたものを修復する
最後に「険しい地は平野となる」と書かれています。今回も自動車を運転することを考えて下さい。日本には立派な道路がありますが、全ての道が舗装されて要るわけではありません。石ころが、ごろごろしているような道もあるでしょう。そういう道をみなさんが運転しているとすれば、車のどこかに故障が起こるかも知れません。車の性能が今ほどよくない昔には、そのようなことがよくありました。でこぼこ道を運転していると突然車が壊れて、止まってしまうことが。私たちの人生もそのようなものではないでしょうか。
人生という道を歩んでいると、舗装された道路もあれば、でこぼこ道もあると思います。そして、車が突然壊れてしまうように私たちの人生も、当然何かが起こって、何かが壊れてしまうことがあります。
しかし、神は「険しい地は平野となる」と言われました。もし、平らな道を運転しているとすれば、突然、何かが壊れてしまうことはありません。これが、神の民に神が言われていることです。
ここに慰めの約束があります。このように表現しましょう。あなたは敗北しているでしょうか。神の素晴らしさについて、疑いを抱いているでしょうか。何かのあざむきの行為によって、心を乱されているでしょうか。交わりが壊れたことで、心を乱されているでしょうか。これらは神の民が毎日経験することです。
しかし、ここで神は、それらとは全く違うことを約束しておられます。あなたの失敗の敗北は、神が埋めて下さいます。あなたの神に対する疑いは、神が取り除いて下さいます。あなたが人のあざむきによって心を乱されているのなら、神がそのあざむきを正して下さいます。あなたが人との交わりが壊れたことで悩んでいるのなら、神が壊れたものを修復して下さいます。これが私たちの慰めです。
打ち負かされない神
神は、どのような神でしょうか。この章の終わりの部分を読むと10節では、だれも神を打ち負かすことができないことを知ります。さきほど敗北について語りました。今、ここにいる私たちは、簡単に打ち負かされてしまいます。
しかし、10節で、神について書かれていることをご覧ください。「神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める」と書かれています。ですから神を打ち負かすことは、だれにもできません。神はすべての力を持っておられます。
もし、私たちが今それを必要とするのなら、私たちは神の言葉をひもといて、
私たちを愛する神の偉大さを覚えます。神は強いお方です。神は力を持っておられます。私たちがどのようなことを経験しようとも、神はその経験に対処することがおできになります。
羊飼いなる神
「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。
『見よ。あなたがたの神を。』見よ。神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ書40章9~11節)
11節によると、神は羊飼いのように、その群れを飼います。これは非常にうるわしい状況ではないでしょうか。詩篇の23篇を読みました。イザヤ書のここにも同じことが書かれています。私たちの神は、力の神です。しかし、神は同情の神でもあります。神は、羊飼いである神です。
御腕に引き寄せる
神は「御腕に子羊を引き寄せ」と書いてあります。腕には力があります。その腕は私たちを祝福しようとしています。神は私たちをふところに抱きます。
なぜなら、私たちを愛して下さるからです。神は私たちを愛して下さいます。母親と赤ん坊のことを考えて下さい。母親はその子どもを腕で抱え、力強く、同情をこめて、愛情をこめて腕に抱くのです。それは神が、私たちに対して行われることです。
やさしく導く
「乳を飲まれる羊を優しく導く」と書かれています。これもまた、うるわしい姿ではないでしょうか。このみことばの意味は、子どもを産んだばかりの羊のことを語っています。その母羊は、子どもを産むことに非常な力を使いました。
ですから、母羊は群れについてゆくことができません。それでは、このような時、羊飼いはどのようにするのでしょうか。羊飼いは、そのような羊をやさしく、愛情をもって導くのです。みなさんも最近、そのような経験をしたのではないでしょうか。私たちの霊的な力が尽き、疲れ果ててしまいます。そうすると、あなたは、ほかの兄弟姉妹についていくことができないと感じます。
神はあなたを見捨てるでしょうか。決してそんなことはありません。神は羊飼いです。神はあなたをやさしく導いてくださいます。このことは、私たちに大変な慰めを与えます。このようなお方が、私たちの神です。このようなお方が、私たちが信頼する救い主なのです。
神を教えてはならない
さらに進みましょう。13節には、「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか」と書かれています。このみことばは、重要な節です。このみことばについて考えてみて下さい。
あなたがどのような状況におかれているか、私にはわかりません。また、あなたがどのような経験を今までに、してきたのかも、私にはわかりません。あなたも私の経験を知らないと思います。
しかし、この節に私たちが注目しなければならないことがあります。私たちが絶望する時、わたしたちは神に叫び求めます。神に私たちの必要を告げます。そのような時のために、私はあなたに霊的な助言をしましょう。
「そのままにしておきなさい」神に、神が何をすべきかということを告げようとしてはいけません。残念ながら、私たちはそのような失敗をしやすいのです。
13節には、「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか」と書かれています。あなたは私に教えることができるでしょう。しかし、神は教えられる必要のないお方です。私たちは、神に何をすべきかを教えてはならないのです。
神をなぞらえてはならない
「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか」
(イザヤ書40章18節)
みなさんは、私と同じように、生ける神を礼拝していることを喜んでいると思います。私は、四十年間マレーシアで宣教師として働いてきましたが、マレーシアでは、事実上すべての町が偶像で満ちています。彼らは神を何かになぞらえようとしているのです。彼らは偶像を指し、神はこれだと言います。
しかし、そんなことは絶対にありえません。私たちはそのことをよく知っています。私たちは、私たちの神を知っています。神を私たちが知っているものになぞらえることは、絶対にできないのです。なぜなら、神はすべてに勝っているお方だからです。
神は知っている
イザヤ書40章27節を見て下さい。私はこの節は、非難であると考えます。ここで、神は、神の民に呼びかけています。
「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ、言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。』と」(イザヤ書 40章27節)
私は、みなさんが神に対して、このようなことを言っていないことを望みます。神は、こう言っておられます。「イスラエル人は、『神は彼らの必要を知らない。』と言っている。」人間はそのような考えを持ってしまいがちです。日本のみなさんは、私と同じような経験は、しておられないと思います。
ですから、私の経験を理解することはできません。
しかし、神は、すべてをご存知です。私が、「私の道は、主に隠れている」と、言うことはできません。イエス様が弟子たちと一緒に船に乗っておられた時のことを、考えて下さい。主イエス様は、激しい突風の中、寝ておられました。ペテロたちは、言いました。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」(マルコ4章38節)
その時のペテロたちは、イザヤ書40章27節のイスラエル人と同じことを言っています。「主は、私たちの必要を見ておられない。主は、寝ている。」みなさんは、このようなことを、決して言わないで下さい。主は、風をおしかりになり、不信仰な者すべてをおしかりになりました。
神は疲れない
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神。地の果てまで創造された方。その英知は計り知れない」(イザヤ書40章28節)
永遠の神は、けっしてお疲れになることはありません。神はたゆむことがないのです。地の果てまで創造された方は、つかれることもたゆむこともありません。ですから、この個所を読んで、励ましを受けて下さい。
「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」(イザヤ書40章29節)29節の「疲れる」は、重要な言葉です。この言葉が聖書のどこに出て来るか、探してみて下さい。
例として、五つの興味深い個所を挙げることができます。今回はその中の一つだけをお話します。ダビデがゴリアテとの戦いに出たとき、彼は力がありました。なぜなら、そのときダビデは神を恐れていたからです。そして、彼はその巨人ゴリアテを倒しました。
しかし、サムエル記Ⅱ21章16~17節では、ダビデは疲れていたために、もう少しで、ペリシテ人に殺されるところでしたが、部下のアビシャイによって命を救われました。このことは私たちにとってのメッセージです。
ある日、ダビデは疲れませんでした。しかし、別の時に、彼は疲れたのです。
今日は、私は疲れません。しかし、明日はちがうかもしれないのです。
イザヤ書40章29節では、神は「疲れた者には力を与え」と教えられています。「精力のない者には活気をつける」と書かれています。
若者も倒れる
「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」(イザヤ書40章30節)
若い人というのは疲れない者だと、私たちは考えます。なぜなら、若い人は、若くて、活力に満ちているから、決してつまずき倒れることはないと思います。
年をとっている者は、残念ながら、走ったりすると、容易に疲れます。しかし、みことばは、若者も倒れると記しています。
二つの例を見てみましょう。一つ目は、使徒の働きの13章です。そこにはマルコという、若い男がでてきます。彼は、残念ながら倒れたのです。バルナバもパウロも倒れなかったのですが、マルコは失敗しました。
マルコは主のために働くことをやめました。彼は若い男だったのに、主の働きから去っていきました。彼にとって、働きはあまりにも大変だったからです。
二つ目は、使徒の働きの20章です。パウロがトロアスに行ったとき、ユテコという男が眠り込んでしまい、三階から落ちました。彼も、若い男だったのです。
イザヤ書40章30節を見ると、「若者も疲れ、若い男もつまずき倒れる」と書かれています。私は、今、二つの例をお話しました。若者も疲れ、若い男もつまずき倒れるということを心に留めておいて下さい。
待ち、上り、走り、歩く
「主を待ち望む者は」(イザヤ書40章31節)
私たちは、どこに力の源があるのでしょうか。ここに秘密があります。「待ちなさい」。それは、すなわち祈りをもって待つということです。
「主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」と書かれています。
鷲がどのように天高くまで上がることができるか、みなさんもご存知だと思います。鷲がそのように高く上がったとき、どんなものが見えるのでしょうか。そのように天高く上がれば、今までとは、全く違ったものの見方が、できると思います。主イエス様は、私たちが置かれた状況からはるか高く、私たちを主のおられる天の高みまで、上られてくださるのです。そうすると、その時に私たちは、置かれた状況を別の角度から見ることができます。
残念ながら、私たちはそこに留まることはできません。また、降りてこなければなりません。その次は、走るということです。聖書の中で走っている人は、つねに何かのメッセージを持っています。あなたへのメッセージであり、私へのメッセージです。そして、最後に歩くことができます。私たち、主を待ち望む者は、歩いても疲れません。
試し読み:決心を延ばすのは危険
決心を延ばすのは危険
D・L・ムーディ
私たちが福音を伝えるとき、聞いている人々に、いつ決心を促すように語るべきでしょうか。有名な伝道者であったD・L・ムーディは、私たちに決心を促すべき時期についての教訓を与えています。
ある人がムーディに向かって言いました。「ムーディさん。私はあなたの伝道のやり方が好きではありません。」「どうしてですか。」とムーディが聞くと、彼は続けて言いました。「あなたは、人々がすぐに決心するように語りますが、人が福音を聞いて決心する前に、なぜ、考える時間を与えないのですか。」ムーディは彼に答えました。「ある時、私は、福音集会で話を聞いた人々に、イエス・キリストを信じるかどうかを決めるまでに一週間の時間を与えました。」
しかし、今では、決してそのような事はしません。私は人々に決心のための時間を一週間、いや一時間でも与えるのが恐いのです。一時間のうちにその人に何が起こるのか、私にはわからないのですから。この事を私はシカゴで学びました。
私はシカゴで五週間にわたってキリストの生涯について話しました。その五週間目の日曜日に、裁判の席に引き出されたイエス様について、総督ピラトが当惑して「キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか」と言っている場面を中心にして、一生懸命福音を伝えました。最後に、聴衆に向かって私はこう言いました。「家に帰って、この質問をよく考えて下さい。そして、次の日曜日に、私と共にカルバリまで行って、十字架のもとで、イエス・キリストを信じるかどうか決めましょう。」ちょうどその時、集会所から一街区ほど離れたところで、火災警報のベルが大きな音をたてて鳴り出しました。
そのころは、火災警報のベルが間違って鳴ることが多くあったので私は気にする事なく、メッセージを続けました。しかし、ベルは鳴りつづけていたのです。 集会の終わりに、サンキー氏が「救い主はきょう呼びたもう」という讃美歌を独唱しました。その讃美歌の最後の節は次のようなものでした。
「救い主はきょう呼びたもう。逃げよ。避けどころへ。さばきの嵐がおそい、死が近ければ。」後になって考えると、それは一つの預言のようでした。集会の後で信じる人は残るように招きましたが、その晩は、少しの人しかいませんでした。なぜなら、私が彼らに、決心するまでに一週間の時間を与えたのですから、期待するほうが無理な話です。決心者のカウンセリングが終わり、私たちが帰ろうとすると、シカゴ市はもう壊滅状態になっていました。私たちの回りは火に囲まれ、燃え盛る火がそこまで迫っていました。私たちのいた集会所の屋根が燃え落ち、いたるところで火の手が上がっていました。私は家まで行き、家内や子供たちと共に安全な所を探しながら炎から逃れました。私たちの背後では10メートルもある炎が追い迫っていました。夜明けまでに、私が伝道していたホールも、私が住んでいた家も灰になり、10万人の人が家とその持ち物すべてを失ったのです。私は10メートルもある炎が、残っているもののすべてを焼き尽くしているのを見た時、最後のさばきの日の火が、どのようなものであるかを垣間見たような気がしました。
その晩、金持ちも貧乏人も同じように逃げました。そこにはなんの差別もありませんでした。偉人、賢人、学者も残らず炎の前から逃げたのです。そこにはなんの差別もありませんでした。その恐ろしい夜、実際に何人の人が死んだのか、誰も知りません。このシカゴの大火では、一千人の人が焼け死んだといわれています。私が伝道したホールの回りでも多くの人が焼け死にました。福音集会に来ていた人たちの中にもその夜、焼け死んだ人たちがいたに違いありません。
彼らの中には永遠に滅びた人がいるはずです。私は彼らに再び、福音を語る事ができないのです。もし、彼らに決心のための一週間の時間を与える事をしなかったなら、彼らは、イエス・キリストを救い主と信じていたのかも知れません。私が彼らに一週間の時間を与えてしまったのです。誰も先のことはわかりません。私は二度とこのような失敗を繰り返したくはありません。人々に決心のための一週間、いや、一時間の時間をも与えたくはないのです。
「あなたは、救われていますか。永遠の滅びではなく、永遠の命を持っていますか。イエス・キリストを救い主と信じていますか。もし、『救われていない。永遠の命を持っていない。救い主と信じていない。』と言われるのなら、今、信じて下さい。明日ではなく、今、信じて下さい。先のことは誰にもわからないのですから。」
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ人への手紙10章9~10節)
試し読み:続慰め
続慰め
ヨハネの福音書14章
ヨハネの福音書14章からお話したいと思います。最初に、救い主の慰めを学びましょう。「慰め」というテーマに関しましては、ヨハネの福音書14章ほどふさわしい章は、他にありません。この章は、「慰め」、という働きのための章です。
この章で、キリストが語っておられるお言葉に、注意深く、また、よく考えつつ耳を傾けて下さい。
二階の大広間
救い主は、弟子たちが、慰めを必要としていることを知っておられました。ヨハネの福音書の偉大な数章を読むと、主が弟子たちと非常に親密であられたことがわかります。これは、この時の働きの、重要な特徴の一つです。二階の大広間を思い浮かべて下さい。皆が晩餐のために食卓に着いています。食事が終わって、さまざまなことについて、主がお話になりました。その話のほとんどは、「問題」に、ついてです。それらの問題の一つ一つは、難しいものでした。主イエス様が、それらの問題に答えておられるのは、素晴らしいことです。
ユダの裏切りとペテロの否認
問題の中でもっともむずかしいことの一つは、イスカリオテのユダが救い主を裏切る者であると明らかに示されたことでした。主イエス様はすでに、あなたがたのうちの一人が私を裏切るとお告げになっていました。
しかし、裏切り者がユダであることがはっきりしたのは、この時だったのです。弟子たちにとって、それがきわめて大きな衝撃だったことは、確かです。弟子たちはこの瞬間、初めて、裏切ろうとしているのはユダだということを知ったのです。ですから、弟子たちは大いに悩みました。
ヨハネの福音書13章では、イスカリオテのユダに加えて、もう一人の弟子についても主イエス様は語られました。ご承知のように、それはペテロです。
その時にそこに座っていたペテロは、「私は、裏切りません。」と言いました。実際には、「あなたのためにはいのちも捨てます。」(ヨハネの福音書13章37節)と言ったのです。
そして、他の弟子たちはペテロがそう言うのを聞いて、ほっとしたと思います。ユダはイエス様を裏切ろうとしていましたが、逆にペテロは、私はあなたのために命を捨てます。と、言ったのです。しかし、主イエス様は、それに対してこう言われました。
「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネの福音書13章38節)
それは非常に悲しいことでは、なかったでしょうか。ユダは主イエス様を裏切ろうとしており、ペテロは主イエス様を否定しようとしているのです。
それを聞いた弟子たちは、深い悲しみを味わったに違いありません。
主の慰め ー心を騒がすなー
信者の集まりに何が起こるか、私たちには、決してわかりません。私たちは、今、神様の言葉に耳を傾けています。しかし、私たちに悲しみをもたらす多くのことが起こり得ると、私たちは、経験によって知っています。
私たちの人生を振り返ると、かつて集会(教会)に集っていた人が、今は、いないことに気付きます。それは、悲しみです。私たちは、そのようなことを予期することができません。イエス様が教えられるまで、弟子たちは、ユダがイエス様を裏切ることを知りませんでした。同じように、弟子たちは、ペテロがイエス様を否認することも知らなかったのです。また、そのような考えさえも浮かびもしなかったのです。
しかし、これと同じようなことが神の集会(教会)でも起こります。私たちが全く思いもしなかった人が、信仰の歩みから、外れてしまうことがあります。そのようなことが起これば、私たちの心は騒ぎ、非常に悲しい思いに満たされ、落ち込みます。
弟子たちが置かれていた状況に、私たちも身を置いてみましょう。ユダは、主を裏切ろうとしていました。ペテロは、主を否定しようとしていました。
しかし主は、そのことを良くご存知でした。主は、御自身の弟子たちをご覧になって、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」(ヨハネの福音書14章1節)と言われたのです。
ここで主イエス様は、慰めの言葉を弟子たちに与えておられます。主は、「私は、ユダが私を裏切ることを知っている。また、ペテロが私を否定することも知っている。しかし、あなたがたは、心を騒がしてはなりません。」と言われているのです。
主が心を騒がせたこと
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネの福音書14章1節)
この言葉は、非常に大胆であると思います。なぜ、私がそう思うのかをこれから説明していきます。主イエス様はここで、「心を騒がしてはなりません。」と言う、非常に大切な言葉を用いられました。
ヨハネの福音書11章33節をご覧ください。「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、」この個所の「動揺を感じ」と、「騒がす」とは同じ言葉です。
主は、ここで、心を騒がせておられたのです。次に、ヨハネの福音書12章27節をご覧ください。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」ここでまた、主の心は騒ぎました。
続いて、ヨハネの福音書13章21節をご覧ください。「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。』」この個所の「激動を感じ」が「騒がす」と同じ言葉なのです。
今日、みなさんが他のことを何も学ぶことができなくても、今、お話した三つのことは覚えて下さい。この三つの個所をを詳しく調べて下さい。
11章では、主イエス様は体のことで、心が騒ぎました。
12章では、主イエス様はたましいのことで、心が騒ぎました。
13章では、主イエス様は霊のことで、心が騒ぎました。
体、たましい、霊という三つのものが、人間を構成しています。主イエス様は、三つの要素のそれぞれについて、心を騒がせになりました。
経験に基づく慰め
もう一度これらの個所を見て、心を騒がす状況に注目して下さい。
11章では、この方が愛された者が死にました。
12章では、この方ご自身の、いのちが取り去られようとしていました。
13章では、友が裏切ろうとしていたのです。
さらに、この13章の終わりでは、もう一人の弟子がこの方を否定しようとしています。
私たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」と言われたのは、このお方です。
そして、主イエス様は、ここで私たちに慰めを与えて下さいました。みなさんの中のある方は、愛する人を亡くされたかもしれません。ある方は、たましいを揺さぶる試みを経験なさったかもしれません。また、ある方は、霊に触れる経験をなさったかもしれません。主イエス様は、そのような時の私たちの苦しみをご存知です。
なぜなら、主イエス様は、ご自身でそのような苦しみを経験されたからです。主イエス様ご自身が、そのような苦しみを経験されたので、あなたにに対して、
「心を騒がせてはなりません。」とおっしゃることができるのです。心を騒がすことについて話を終える前に、ヨハネの福音書5章7節でもこの言葉が、用いられていることに触れておきます。
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。」ここでは、池の水が「かき回される」と書いてありますが、これが「騒がす」と同じ言葉です。ここでの意味は、「水が揺り動かされた」ということです。
私たちの生活の状況が、集会生活の状況が、私たちを揺り動かすことがあります。また、私たちを悩ませます。そのようなことを経験するとき、主は言われます。「あなたの心を騒がせてはなりません。」
信仰、希望、愛
信仰・希望・愛という三つのことについて、簡単に触れておきたいと思います。
一つ目は、信仰についてお話します。
私が経験することによって、心を騒がせないためには、私は主を信頼しなければなりません。主イエス様は、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネの福音書14章1節)と言われました。
どんなに状況が深刻であろうとも、どんなに大きな悩みをもたらすものであっても、私たちにとっては、それらのことは、問題にはならないのです。どのような状況であっても、私たちは、主イエス様を信じなくてはなりません。
なぜなら、主イエス様は、私たちの苦しみを本当に理解されているからです。私たちの苦しみを本当に知っておられる方が、私たちを慰めて下さいます。私たちが、心を騒がせるような、出来事に直面したとき、私たちのするべきことは、主イエス様を信頼することです。
二つ目は希望についてお話します。主イエス様は、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネの福音書14章2節)とおっしゃいました。
ユダが裏切ることを聞いて、弟子たちはつらい思いをしました。ペテロが主を否定することを聞いて、弟子たちは、悲しい思いをしました。今度は、主が、弟子たちから、去ると言われたのです。これこそ、弟子たちにとっては、最も大きな衝撃であったに違いありません。主が、私たちから、去ることを想像して下さい。私たちの心は騒ぐのでは、ないでしょうか。
しかし主は、私は去るけれども、住まいを用意したら、また戻ってくると言われたのです。そこに、私の希望があります。私は、主を信じます。主は私の希望です。なぜなら、再び私のために来られるからです。
三つ目は愛についてお話します。そして、主は言われました。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14章3節)この節は、愛について語っていると私は思います。
みなさんがどのような経験をなさろうと、それがどんなに悲しい経験であろうと、ここに三つの慰めの原則があります。
信仰・希望・愛です。
トマスの疑い
さて、ヨハネの福音書14章5節では、トマスが登場します。みことばの中でトマスがどのように書かれているかは、みなさんもご存知だと思います。
かつて私が小さかったころ、伝道者の方がよく私の家に訪ねてみえました。私は伝道者の方に、私の名前を聞かれるのがいやでなりませんでした。なぜなら、私の名前は「トマス」だったからです。
一人の伝道者の方は、私の名前を聞くと、「伝道者はみな、疑い深いトマスでは、ないでしょうか。」と冗談を言われました。それを聞いた私は、トマスではなく、ロバートか何か他の名前であったらよかったのに、と思いました。
私たちは疑うということをトマスと結び付けて考えます。彼は、疑いを持つ者でした。ここでトマスは、「主よ、どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道がわたしたちにわかりましょう。」(ヨハネの福音書14章5節)と言っています。
ヨハネがトマスについて言っていることは、とても興味深いことですが、残念ながら今回は、慰めというテーマについてお話していますので、それについてお話することができません。トマスは、ヨハネの福音書の11章・14章・20章・21章に出てきます。それらの個所をお読みになって、ヨハネの福音書でトマスがどのように描かれているかお調べになって下さい。
新しい生ける道
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネの福音書14章6節)ここで主イエス様は、トマスの疑いに対して答えることができました。
主イエス様は、心を騒がせていた弟子たちを慰められたように、トマスの心の中にあった疑いをも静めることができました。この節を読むと、非常に慰められます。この節は主イエス様の口から出た、もっとも大きな答えの一つです。
トマスの心の中にあった問題がどのようなものであったにせよ、救い主によって与えられた答えによって、その問題は解決しました。主イエス様は、「わたしが道であり、」とおっしゃいました。このすばらしい表現について考えてください。色々と考えることができますが、私は、幕屋の中の祭壇に注目します。
神の御前に出るときは、祭壇の上でいけにえをささげることが常に必要でした。ですから、主イエス様が、「わたしが道であり、」と言われたとき、ご自分の死について、尊き血を流されることについて語っておられ、ご自分が神の御前に出る道であると言っておられるのです。私たちは、尊い主イエス様の血によって、神の御前に出るのです。
「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために新しい生ける道を設けてくださたったのです。」(ヘブル人への手紙10章20節)「新しい生ける道」こそがキリストなのです。
御言葉による洗い
主イエス様は、私が真理であると言われました。もう一度、幕屋を思い浮かべて下さい。祭壇の横にあるのは、先盤、洗う所です。祭司が幕屋で使えるためには、まず、先盤で自分を洗い清める必要がありました。
主イエス様は、ここで、「わたしが真理であり」、と言われ、ヨハネの福音書17章17節で「あなたのみことばは真理です。」と言われました。
私たちを洗い清めるのは、神のみことばです。
主が私たちを神の御前に導く
主イエス様は、わたしがいのちであると言われました。この言葉は、聖所を、神の直接の御臨在を、思い起こさせます。ですから、私は自身にあふれるのです。
トマスがどのような疑いを持っていたとしても、その疑いは、救い主がここで示された慰めによって、完全に解決しました。そして、私たちも、このみことばによって慰められます。私たちはカルバリに来ました。祝福された方が、十字架にかかって、私たちのために死ぬのを見ました。その方こそ、私たちを神の御前に連れていって下さる方なのです。
私たちは、今、神のみことばの中にいます。みことばは、私たちを汚れから清めます。私たちはいのちを、永遠の命を持っていることを知っています。永遠の命によって、私たちは神の御前に出て、そこに永遠にいるのです。ですから私は、トマスがこのような疑いを抱いたことを喜んでいます。トマスに何か困難があったことを喜んでいます。なぜなら、それを通して、私たちは偉大な答えを得ることができたからです。
私に似ているピリポ
次に出てくる弟子は、ピリポです。イスカリオテのユダ、ペテロ、トマス、と続き、ここでは、ピリポが出てきます。ピリポは、私のような者であると思っています。
私は、時々、非常に鈍いと感じます。私が計算しようとすると、とても長い時間がかかるのです。私は、1936年7月1日にイエス様を信じて救われました。
みなさん、それからの年月を考えてみて下さい。それなのに、私はあまりにも少ししか、イエス様を知らないのです。なぜなら、私の心は鈍いからです。私は、ときどき、聖書をなかなか理解できないと思い、また、神様のみこころがわからないと感じます。
もし、私たちの目の前にすべてが示されれば、理解するのがもう少し楽になるでしょう。それがピリポがここで言っていることなのです。
「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』」(ヨハネの福音書14章8節)ピリポは、もっとやさしくしてください。そうすれば問題は、解決しますと主に言っているのです。
神を見ることを望んだモーセ
みなさんは、ピリポと同じようなことを言った人を覚えているでしょうか。それは、モーセです。モーセは神様に向かって、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(出エジプト33章18節)と言いました。
モーセもピリポと同じように、もし、神様を見ることができたら、問題はすべて解決すると言ったのです。それに対して主は、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33章20節)と、仰せられたのです。
それでも主は、モーセのために、後ろを見せられました。「わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」(出エジプト33章22~23節)
もし、私たちがすべてを見ることができたら、確かに私たちの困難は解決します。しかし、主はそのような方法をお取りになりませんでした。主はピリポになんと言われたのでしょうか。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。」(ヨハネの福音書14章9節)
ピリポは、まるで私のようです。私も、ピリポと同じように少ししか聖書のことを知りません。私が救われてから60年以上の年月が流れているのに、私は、聖書を知らないのです。みなさんがピリポと同じような者だと思われるかどうかは、私にはわかりませんが、私はピリポと同じような者だと感じるのです。
助け主の約束
主イエス様の答えは素晴らしいものでした。実は、ピリポに対する答えは、ヨハネの福音書14章8節からはじまっています。
14章8節は、ピリポの願い、14章9節は、ピリポの鈍さ、14章10節は、ピリポの疑いです。14章11節でピリポは、ただ信じなければなりませんでした。
「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネの福音書14書11節)
主のお答えの中から、一点だけを取り上げます。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネの福音書14章16~17節)
この個所が、ピリポに対する、また弟子たちに対する慰めの重要な点であったと思います。主はまもなく去ろうとしておられました。
ですから、弟子たちの心は絶望で満たされていたのです。しかし主は、わたしが去っていくなら、もうひとりの助け主(慰め主)をあなたがたに与えると言って下さいました。主イエス様のこの言葉は、弟子たちに対して非常に大きな慰めとなりました。
ですから私たちは、この個所を考えたいと思います。そして、神の霊が彼らに下った時のことを考えてみましょう。弟子たちがそのとき経験した大きな力について、弟子たちがその経験によって理解したことについても考えましょう。そのときに大きな祝福が与えられました。神の霊が来られたからです。
御言葉と聖霊
みなさん、このことを覚えて下さい。今、私たちの前に御言葉があります。ですから、私たちは想像に身を任せる必要はありません。私たちは、みずからの力により頼まなくてもよいのです。私たちは神の聖霊から力をいただくことができるのです。
なぜなら、聖霊は私たちのうちに住み、私たちとともにいらっしゃるからです。ですから、私たちは鈍い者であってはいけません。私たちは神の霊の心を持たなければならないのです。ピリポは、聖霊降臨を経験したときに、ヨハネの福音書14章で主から受けた教えに感謝したと思います。この教えから慰めを受けましょう。あなたは集会に来て、学びを聞きます。むずかしいと感じることがあるかも知れません。聖書を読んで、理解できない個所にぶつかるかも知れません。このような時、みなさんはどのように対処するでしょうか。
キリストの言葉に耳を傾けて下さい。そして、聖霊の働きに委ねるのです。そうすれば、豊かな真の祝福を経験することができます。
主がご自分を現す ー聖書に矛盾はないー
ピリポに対する言葉の終わりに、主はこのようにおっしゃっています。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネの福音書14章21節)
芋づる式という表現のように、ここで、一つのことから別のことが生じています。主イエス様が「現す」という言葉を使うと、イスカリオテでないユダは、それを聞いてわからなくなりました。なぜなら、このユダは、キリストが栄光のうちに現れることを考えていたからです。
彼は、その現われを待ち望むように教えられていました。しかし主は、「彼に」、つまり個人に現すと言っておられるのです。みことばを読んで、矛盾があると感じることがあります。しかし、実際には矛盾がないのです。ユダは、主の言葉に矛盾があると考えました。
「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」(ヨハネの福音書14章22節)と、ユダは聞いています。
もしかすると、みなさんの中にも、聖書の中に、矛盾があると考えている人がいるかもしれません。しかし、聖書には、矛盾はありません。私たちは、聖書のみことばによって、慰めを受けることができます。
父は私たちの内に住む
主は説明なさいました。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」(ヨハネの福音書14章23節)
私たちもこのとおりにするでしょう。「わたしの父はその人を愛し、」(ヨハネの福音書14章23節)みなさんも父の愛を感じていらっしゃると思います。「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネの福音書14章23節)
みなさんも、考えて下さい。ここで、「ともに住みます」と書かれています。この言葉は、この章の最初に出てくる言葉と同じです。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」(ヨハネの福音書14章2節)と、主は言われました。
私たちは、父の家に住むことを待ち望んでいます。私たちは、主が来られることを知っています。そして、そのときに、主は私たちを父の家に連れて行って下さいます。しかし、あなたの心は、神様(聖霊)の住まいとなっているでしょうか。それが、この個所の言っていることです。
私たちは、父の家に行くことを待ち望んでいます。しかし、父は私の中に家を持っておられます。このことは私たちにとって、なんと大きな慰めではないでしょうか。私たちは、やがて父のところに行くことを待ち望んでいます。しかし、父は今、私たちのうちに来て、住むことを望んでおられます。ですから、主のこの言葉は、ユダにとって大きな慰めになったと思います。
もう一度「心を騒がすな」
最後の段落です。ここで主は、弟子たち全員に対して語っておられます。主は再び、助け主(慰め主)について語られました。ヨハネの福音書14章27節では、わたしの平安を残すとおっしゃいました。また、ヨハネの福音書14章の初めで述べられたことを主は、繰り返して言われる必要がありました。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14章27節)
もう一度主は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」とおっしゃいました。なぜなら、「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る」(ヨハネの福音書14章28節)と、主が弟子たちに約束なさったからです。
救い主は父を愛する
この学びの終わりに、最後の節を強調したいと思います。なぜなら、このところがもっとも重要であるからです。ヨハネの福音書14章では、父という言葉が23回使われています。このことは私たちに、ヨハネの福音書14章を読む場合には、父について考えなくてはいけないと教えています。
もしここで、主イエス様が父について言われていることを書き留めるなら、非常に多い量になるでしょう。この個所は、新約聖書の中でも際立っています。ここは、新約聖書の中で救い主が父を愛していると言っている唯一の個所です。主は父を愛しており、父のみこころを行います。それは、主が父を愛していることを世が知るためです。私たちも立ち上がって主に従おうではありませんか。
主は、どこへ行かれるのでしょうか。主は、十字架に向かって行かれるです。主は、苦難を受けようしておられます。主は、父のみこころを行おうとしておられます。それがどのような犠牲を強いるとも、どのような苦難が待っていようとも、主は父を愛することを、世に対して証明したいと言われたのです。これらが、救い主の行われたことです。
私たちは、どうでしょうか。私たちの状況を忘れましょう。私たちの悲しみを忘れましょう。私たちの問題を忘れましょう。とりあえずそれらすべてを脇におこうではありませんか。そして、自分にこのように尋ねて下さい。
私は、父を愛しているのか。私は、父のために苦しむ用意があるのか。私は、父に仕える用意があるか。
主は、私たちに語り掛けておられます。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」(ヨハネの福音書14章23節)
私たちは、主イエス様のことばを守る者でありたいと思います。
試し読み:自由
自由
ウィリアム・マクドナルド
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ 5・13)
神の子供の自由は、私たちのもっとも貴重な財産の一つです。御子によって自由にされたクリスチャンは、本当に自由なのです。しかし、わたしたちクリスチャンは、責任のある自由に召されたのであって、放蕩な行いに召されたのではありません。子供たちは、家庭でのしつけからの自由を求め、若者たちは、勉強の束縛からの自由を求めます。大人は、結婚の誓約からの自由を得ようとします。しかし、私たちが持っている自由は、そのようなものではありません。
電車は、線路から離れて走る事ができません。同じように私たちクリスチャンの自由も、神様との愛の絆で結ばれた自由なのです。
ある人が次のように言いました。「規則を守らない人に自由という領域はない。私たちが何をするにしても、本当の自由を得たいなら、束縛を受け入れなければならない。音楽家が、その美しい世界を楽しみたければ、音の調和を大切にしなければならないし、建築家が引力の法則に従わなければ、建てられる家はない。健康の法則を無視する人はどのような自由を楽しむ事ができようか。これらの事からもわかるように、従う事は自由を得る事であり、不法は、害を招く事である。」
私たちが束縛と感じる律法から解放されている事は、次のみことばからも確かですが、「ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。」(ローマ7・3~4)それは、クリスチャンが律法を無視し、無法者になる自由があるという意味ではなく、罪からの自由(解放)を持っているという事です。
「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6・7)このみことばからも理解できますように、私たちは、罪から解放され、自由となっています。もはや私たちクリスチャンは、罪の奴隷ではなく、神の奴隷・義の奴隷となっているのです。それは次のみことばからもあきらかです。
「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(ローマ6・18)
「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」(ローマ6・22)
神の奴隷・義の奴隷である私たちクリスチャンは、愛の絆によって主イエス様に結ばれており、新約聖書にしるされている多くの戒めに従わなければならないのです。
第一コリント人への手紙9章19節で、パウロは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」と述べています。私たちが、多くの人の救いを願うのなら、私たちの持っている自由を悪のために使う事はできません。「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(第一ペテロ 2・16)私たちクリスチャンは、多くの人の救いを願うがゆえに、他の人をつまづかせる自由を持っていません。
「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。」(第一コリント8・9)
私たちクリスチャンは、神の奴隷・義の奴隷となっているのですから、主の御名を汚す自由を持っていません。
『律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのです。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。』(ローマ2・22~24)
同じように神の奴隷・義の奴隷である私たちクリスチャンは、この世を愛する自由を持っていません。
「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(第一ヨハネ2・15~17)
また、私たちクリスチャンは、聖霊を悩ませる自由も持っていません。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(第一コリント6・19)
神の奴隷・義の奴隷であるクリスチャンの自由は素晴らしいものです。主イエス様は、言われました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11・28~30)
神の奴隷・義の奴隷となる自由ほど素晴らしいものはありません。なぜなら、それは、たましいの安らぎを得る事なのですから。私たちクリスチャンの自由は、主のくびきを負うことであり、主に従うことによって本当の安らぎを得る事ができるのです。
試し読み:荒野にて (カデシュ・バルネア)
荒野にて (カデシュ・バルネア)
滝川晃一
「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。」(申命記1章2節)この行程は約300キロあります。女、子ども連れのイスラエルの民族には、かなりの強行軍でした。
しかし、乳と密の流れる約束の地カナンは、目の前です。南端のベエル・シェバは三日の道のり、80キロしかありません。
決断の地カデシュ・バルネアで、不信仰な選択をしたイスラエルの民は、その三日の距離を四十年かけて荒野をさまようという、神様のさばきを受けました。
「主はモーセに告げて仰せられた。『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に
与えようとしているカナンの地を探らせよ。』」(民数記13章1~2節)
この命令は、申命記の記事と比べて学ばなければなりません。
「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」(申命記9章23節)
これが神様の命令でした。彼らが信仰に立ってカナンに攻め入ったなら、約束の地をすぐ手に入れることができたのです。
「あなたがた全部が、私に近寄って来て、『私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。』と言った。」(申命記1章22節)
このように不信仰なイスラエルの民の申し出を受けたので、神様が十二人の斥候の派遣をモーセにお命じになったのでした。
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネの福音書20章25節)
これが不信仰な者の態度です。見なければ信じないトマスの不信仰に対して、主イエス様は、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」(ヨハネの福音書20章27節)と、お許しになりました。カデシュ・バルネアでも、自分の目で確かめなければ信じない、というイスラエルの民の不信仰な申し出を許されたのです。
十二人の斥侯
各部族を代表する十二人の斥侯はカナン地方を縦断し、ヨルダン川の上流のレホブまで行きました。外敵に厳重な警備をしていたカナン地方では、奇跡的な働きでしょう。帰路はネゲブのヘブロンに回り、近くのエシュコルの谷から、一ふさのぶどうを切り取って帰りました。二人で担いだのですから、どれほど豊かな実りかがわかります。神様が見せたかったのは、彼らがこれから入って行く「乳と密の流れる地」の祝福ではなかったのでしょうか。十二人の斥侯は同じ体験をして、同じものを見たのです。
それなのに、結論は十人と二人の真っ二つに別れました。その原因は、信仰と不信仰であることは明らかですが、その一つ一つを詳しく考えたいと思います。
「そこにはまことに乳と蜜が流れています。」(民数記13章27節)
その点について十二人の意見は一致していました。証拠のくだものもあるのに、
「しかし」と続きます。
以前、列王記第一、17章のエリヤとツァレファテのやもめの女に関する学びを読んだことがあります。「あなたの神、主は生きておられます。」(Ⅰ列王記17章12節)と女は言いました。
次に困窮している現状を色々並べ立てます。「かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。」(Ⅰ列王記17章12節) 結論は「それを食べて死のう」というものでした。やもめの女の神は、生きておられるとは言えません。
その不信仰の方程式を、エリヤが信仰の方程式に変換したのだと、その学びは言います。
エリヤはまず現状を並べ、最後に「主が、こう仰せられる」(Ⅰ列王記17章14節)と置きました。そうすれば、「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」(Ⅰ列王記17章14節)との結論に達するのです。
カデシュ・バルネアでも同じことが言えるでしょう。約束された乳と密の流れている地を見ていながら、「しかし」と困難は現状を並べ立てています。
しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナク(巨人)の子孫を見ました。」(民数記13章28節)
その結論は、「私たちはあの民のところに攻め上れない。」(民数記13章31節)
と、いうものでした。
反対にカレブとヨシュアは、「上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13章30節)という結論を出したのです。
その差は、何によるものでしょうか。カレブとヨシュアは、いろいろな現状の最後に「主が私たちとともにおられるのだ。」(民数記14章9節)という信仰を置きました。それで、「彼らは私たちのえじきとなる」(民数記14章9節)との確信を持つことができたのです。
いなごのように
「自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」(民数記13章33節)
不信仰の目には、目の前の問題が大きく見え、神様の力が、小さく見えるのです。
子どものころ、「少年倶楽部」で鶏の目の記事を読んだことがあります。自分より強い鶏は大きく見え、弱い鶏は、小さく見えるというのです。群れの一羽がいじめられるのを見ると、その鶏が小さく見えてきて、みなでいじめるといいます。現代社会のいじめと同じではありませんか。解決法は、いじめている鶏を縛り、いじめられた鶏に突っつかせるのです。そうすれば、大きい鶏が小さく、小さい鶏が大きく見えてきて、そのいじめが止むのだそうです。
あなたは、自分がいなごのように見える信仰生活をしていませんか。もし、悲観的な信仰の中にいるなら、抱えている問題や悩みを先に述べ、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカの福音書1章37節)というみことばを、最後に置いてご覧なさい。
大きく見えていた問題や悩みが小さくなり、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8章31節)という確信に立つことができるでしょう。
麗しい地を
「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。」(民数記13章31節)
神様がお怒りになったのは、イスラエルの民が、カデシュ・バルネアで不信仰な選択をしたからだけではありません。神様の祝福の地をさげすみ、ばかにしたからです。
「しかも彼らは麗しい地をさげすみ、神のみことばを信ぜず」(詩編106・24)
神様の祝福の地である乳と密の流れる地を、食い尽くす地だとさげすんだのは、神様の恵みとその栄光をあざけることでした。私たちクリスチャンも、「天にあるすべての霊的祝福」(エペソ1章3節)を与えられ、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」(Ⅰペテロ1章4節)が約束されています。
これは、主イエス様の十字架の御死と復活によって、私たちに与えられたものであり、私たちは、「天の故郷」(ヘブル11章16節)である御国に向かって旅をしているのです。
もしかするとみなさんは、「イスラエルの民と違い、私たちクリスチャンの中で、神様の祝福をさげすむ者はいない。」と、言われるかも知れません。
私たちは、「私たちは土で造られた者(アダムによる肉の性質)のかたちを持っていた(文語訳・口語訳では『いる』)ように、天上のかたち(イエス・キリストによる霊の性質)をも持つ」(Ⅰコリント15章49節)とあるように、霊と肉、両方の性質を持っているのです。
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます」(ローマ8章5節)私たちの肉の性質は、地上の富や現実の快楽を尊重し、天上の祝福や永遠の御国をさげすみます。「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者」(ヘブル12章16節)の性質が、あなたの中にもあると思いませんか。「血肉のからだは神の国を相続できません。」(Ⅰコリント15章50節)
神様の祝福された地をさげすんだイスラエルの民は荒野をさまよって、死に絶え、新しく生まれた民だけが約束の地カナンに入ったように、キリストにあって新しく生まれた霊的な体だけが、新天新地に入って行くのです。もし、クリスチャンが、肉的な性質に仕えて地上の生涯を終えるなら、木・草・わらで建てた家のように、「キリストのさばきの座」(Ⅱコリント5章10節)の火に焼かれて、何も残りません。しかしその人自身は、「火の中をくぐるように」(Ⅰコリント3章15節)して、天の御国に入ります。地上の生涯に対する悔いは、永遠に続くことでしょう。
御前の破れ
「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、 御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」(詩編106・23)
不信仰なイスラエルの民は、モーセたちを殺して、エジプトに帰ろうと言い出しました。神様の御怒りは頂点に達し、モーセに言われました。「わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」(民数記14章12節)
モーセたちを殺そうとする民を滅ぼし、モーセの子孫を選民にしようという神様の提案です。ところがモーセは、自分を殺そうとするイスラエルの民のために、
取りなしをしたのでした。「どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」(民数記14章19節)「破れに立つ」というのは、神様の栄光のため、民(集会)のため、自分の立場を捨てて立ち向かう働きを言います。
モーセは、「主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかった」(民数記14章16節)と、主の御名がそしられることを恐れ、同胞のイスラエルの民が滅ぼされることを悲しんだのでした。
あなたの属する集会(教会)の中に、このうような信者がいたら、いえ、あなた自身が破れに立つ人であれば、何と幸いなことでしょう。モーセの必死の取りなしにより、イスラエルの民は救われたのです。
ホルマの敗北
「その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。」(民数記14章37節)
モーセは神様の裁きをイスラエルの民に告げました。民はひどく悲しんだ、と書かれていますが、彼らが不信仰の罪に気がついたわけではありません。
「翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。『私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。』」(民数記14章40節)
とにかく・・・行ってみよう。なんと無責任な言葉でしょう。信仰は全く無視されています。「主はあなたがたとともにはおられない。」(民数記14章43節)という、モーセの忠告を聞かないで、「それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。」(民数記14章44節)のです。
妻デリラに裏切られたサムソンが、髪七ふさを切り取られ、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。」(士師記16章20節)とペリシテ人の前に出て行き、目をえぐられたように、イスラエルの民もアマレク人たちに敗北し、ホルマまで追われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネの福音書15章5節)
このことは、今のクリスチャンにも言えることではありませんか。「信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14章23節)
決断の地カデシュ・バルネアは、私たちに不信仰の恐ろしさを示し、信仰に生きることの大切さを教えているのではないでしょうか。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11章1節)
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