小さなテントの中で
J.G.ハチンソン学び集
目次
教者の紹介
まえがき
第一章 ベテル・神の家
第二章 ヘブル人の奴隷
第三章 愛の詩篇(第一コリント一三章)
第四章 神に喜ばれる生活
第五章 信者の中に働く聖霊
第六章 霊的繁栄のために
第七章 ハンナの祈り
第八章 実を結ぶために(ホセア書)
第九章 偉大な大祭司(ヘブル人への手紙)
第一○章 パン裂き
第一一章 パウロの霊的な生涯
あとがき
教者の紹介
みなさんに、ジェイムス・ハチンソン兄をご紹介いたします。
ご兄弟は、約五十五年前に信仰をもたれました。
十四歳の時でした。
ハチンソン兄のお父さんは、北アイルランドの有名な伝道者です。
ハチンソン兄は、四十三年前に、伝道者として推薦されました。
そのあいだ、北アイルランド、イギリス全土をはじめ、十数か国で、福音と学びの奉仕を されてきました。
今回は、カナダのバンクーバーでの大会に出席され、それから日本に来られました。 初めての来日です。
日本のあとには、マレーシアに行く予定をされています。
日本には、三週間滞在をし、各地でみことばを学んでくださいます。
どうぞ、ハチンソン兄の学びをお聞きください。
一九八九年四月 J・B・カリー
ベテル・神の家
一九八九年五月三日(水) 横浜にて(鶴見)
愛するご兄弟たちとともに、こうして聖書の学びの働きにあずかることは、ひじょうに幸いな特権です。また、みなさんとともに、こうして集まることは私にとってひじょうにうれしいことであります。
きょう、みなさんとともに新、旧約聖書を一か所ずつを読みたいと思います。
まず、テモテ第一の手紙三章一四節からお読みいたしましょう。
14~16節 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を 書いています。
それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あ なたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。
確かに偉大なのはこの敬けんの奥義です。
「キリストは肉において現れ、
霊において義と宣言され、
御使いたちに見られ、
諸国民の間に宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた」
旧約聖書は、創世記二八章です。その一六節からです。
16~22節 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそ れを知らなかった」と言った。
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」
翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油を そそいだ。
そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであっ
た。
それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路 で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜り、
私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、
私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一 を私は必ずあなたにささげます。
テモテ第一の手紙は、エペソ市にいたテモテへのことばでした。そして、そのテーマはエペソ市にある「神の集会」でした。パウロは、その神の集会を「神の家」と呼びました。創世記のところは、ヤコブが神様から啓示、ビジョンを受けたベテルに関することばです。ご存じと思いますが、ベテルの意味は「神の家」です。きょう、ベテルについて学びたいと思います。そして、ベテルに関していくつかの事実について見たいと思います。これらのことは、神のみ民の集会すべてと関係します。または、これらのことは諸集会の特質であることが明らかになります。
(1)
まず第一に、ベテルというところは、「神がおられるところ」であると教えられます。ヤコブが言いました。「このところには神がおられる」。そして、この事実はヤコブに強い印象を与えることとなりました。ベテルは、おそらくふつうの砂漠とまったく同じようなところでしょう。石、砂などがふつうのところと同じにあったでしょう。しかし、ヤコブにとって、ここはまったくちがうところです。なぜかと言いますと、「神様がおられるところ」であると感じたからです。そのすぐあとに、ヤコブが神について話したとき、神を「ベテルの神」と呼んだことは興味深いことです。
主イエスが地上におられたとき、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と言われたのは、私たちにとってうれしいことばです(マタイ一八・20)。パウロもコリントの兄弟姉妹たちにまったく同じことを教えました。彼は「あなたがたが神の神殿である」と書きました。コリントの兄弟姉妹たちの霊の家では、いろいろな事がらにあやまりがありました。これらのことを整理させようとして、パウロはこのように書きました。「未信者があなたがたの中にはいって来たときに、神様がおられることがわかるようにしなさい」
私たちは、けっしてある人を、ある宣教者を、ある特定の場所を中心としたり、またはけっして信仰の宣言状のようなもののために集まっていません。私たちは、主イエス・キリストを中心として集まっています。
私たちにとって、これは励ましのことばとなるでしょう。集会の人数が少なくても、または多くても、私たちは、キリストが真ん中にいらっしゃることを確信することができるからです。ときにはがっかりすることもあるかもしれません。失敗も失望もあるでしょう。または、ある人々が神の集会を去ってほかのところへ行ってしまうばあいもあります。そのようなことにもかかわらず、主イエスが「わたしはここにいます」と言ってくださいました。このことばは、ひじょうに強く私たちの心に迫ってくるものではありませんか。ともうしますと、もし主イエスがここにいらっしゃるならば、私たちもここにいるべきなのです。
ベテルとは、「神様がおられるところ」であるのですね。