日が沈むまで
G.M.スピーチリー&K.A.リデルス共著
まえがき
私がはじめて日本にまいりましたのは一九五三年十二月でした。私は二十七歳でした。どうして母国オーストラリアを離れて日本へ出かけたかと言えば、それはすべて主の導きで、主のみこころだ、と確信しましたから。
本を読むことが好きな私は、外国(オーストラリアから言う外国のこと)で主に仕えている方々の伝記などもよく読みました。また時々そのような働きについての話を聞くことができました。マタイ伝九・37、38のみことばに、「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」とあるのでそう祈ると、こんどは自分がどうすべきか、と考えさせられました。祈りながらいよいよ日本へ行って少しでも主に仕えるように導かれて、用意して出発しました。そして一九五三年十二月二十八日に、日本に到着しました。
しばらく前からリデルス姉妹と手紙を交換していましたが、その日はじめて顔をあわせて会いました。リデルス姉妹はみ手に導かれて一九五二年五月に北アイルランドのベルファースト市から日本へまいりました。それから今まで五十年以上、私たちはみ手に守られて一緒に生活して、たがいに助け合い、主様に仕えさせていただきました。み約束にあるように、主はすべての必要を満たしてくださいました。今年、リデルス姉妹は八十八歳、私は八十一歳になります。
さて、日本に到着してまずしたことは、日本語の勉強でした。「これは本です」からはじまりました。一九五五年四月から、まだ日本語学校にかよいながら、伝道出版社で奉仕するようになりました。日本へ行く前の十年ほど、私は事務員として勤めましたので、それは私に適当な働きでした。少しずつ月刊誌の原稿の手伝いもできるようになりました。数年のちに「婦人メモ」のページができたとき、他の姉妹たちの助けを受けて私はおもにその責任をとりました。
一九九四年九月に私たちは北アイルランドへ帰国するように導かれました。日本を離れると考えると、なんとさびしい気がしたでしょうか。永年愛し合った兄弟姉妹、日本の兄姉や外国の兄姉と別れて日本を離れるのはたしかにつらい経験でした。
昨年あたりから、私とリデルス姉妹が書いた原稿からいくつか取り上げて一冊の本にしたらいかがでしょうか、との話が出ました。それにしたがってこんどこの本が出来上がりました。少しでも益となるように願って愛するみなさんにこの本を贈りたいと思います。
十五歳の誕生日の前の日に救いの確信を持つことができてからもう六十六年がたちました。忠実なる主はよわい者をお守りして、すべての必要を満たしてくださいました。これからも主に寄り頼んで、「日が沈むまで」、忠実に主に従ってあゆみたい、と願っています。
言うまでもないですが、私たちにはこれほどのよい日本語を書く力がありません。すべては愛する森田寿子姉妹の苦労でございます。愛姉は力をつくして私たちの文章をきれいな日本語に書き直してくださいました。心からお礼を申し上げます。主に報いられますように。
二〇〇七年十二月
G・スピーチリー
目次
まえがき
1 朝ごとに新しい
2 年老いた姉妹アンナ
3 ルツ記の金言
4 友だち
5 互いに励まし合いましょう
6 いろいろな3章16節
7 嵐
8 朝の食事
9 あれほど大きな石
10 舌で聖書を読んだ人
11 わたしの手を見なさい
12 根がないために
13 母の生きざまを見た
14 その子の美しいのを見た
15 有名な母
16 さかさまつげ
17 (耳)雑感
18 数学はお好きですか
19 信仰と疑い
20 主が設けられた日
21 まろうどイエス
22 木の葉
23 親切なことば
24 主よ。いつまでですか
25 死にぎわの妻の祈り
26 ダビデの子のイエス
27 最善の贈り物
28 しらがになっても
29 日が沈むまで
30 ひとりの若い女性からの手紙
31 神の御声(1)
32 神の御声(2)
33 勝利のあとに
34 火
35 バラの花束
36 主のしもべ、教会のしもべ
37 ザカリヤとエリサベツ
38 マリヤとヨセフ
39 シメオンとアンナ
40 お金について
41主イエスが訪ねた家
42 ペテロに学ぶこと
本文より「いろいろな3章16節」の一部を紹介いたします。
去年、私たちが帰国していた折、ロックハウスという家に招かれて
一週間の休暇を取ることができました。・・・
ロックハウスの各部屋のベッドのわきには、ギデオン協会が配った聖書が置いてあります。
その聖書の前のほうに、みことばをよく知らない人のために説明書きが付いています。
有名なヨハネの福音書3章16節のことが書いてあるのですが、
この節は、千六百以上の国語に翻訳されているそうです。
そして、25か国語のヨハネ3章16節がズラッと印刷されています。
そのなかに日本語もありました。
『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』
(口語訳)
このみことばは、すべてのクリスチャンに愛されています。
「3章16節」と聞くだけで、私たちはすぐにこのみことばを思い出しますが、
幸いな「3章16節」はほかにもあることをご存じでしょうか。
テモテヘの手紙第一の3章16節に、
『キリストは肉において現れ、……栄光のうちに上げられた』とあります。
私たちの救い主は神であったのに、人となられ、地上で父なる神のみこころを
すべてなしとげて天に上げられました。
私たちは今、おなじ主イエスが、
栄光に包まれて天から来られるのを待ち望んでいます。
今、主イエスはこの世におられません。
でも、使徒の働き3章16節が教えているように、
その御名には力があります。
この御名のほかに、救いを得るための名は人間に与えられていないのです。
私たちはもう救われていますが、救われてから必要とするものも、いろいろあります。
何はさておき、霊的な成長に欠かすことのできないのが、みことばです。
コロサイ人への手紙3章16節は、『キリストのことぱを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい』と勧めています。・・・
ヨハネはその福音書の3章16節に、神の最高の愛を、たぐいなきことばをもって記しました。
『そのひとり子を賜ったほどに』
ヨハネはもう一度、こんどは彼の手紙の第一、3章16節でその愛のことを述べ、私たちがその愛にどう応えるべきかを示しています。
『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。』
『どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。』(Ⅱテサロニケ 3章16節)