足もとにすわって
目次
序にかえて
「足もとにすわって」に寄せて
1 新年
2 大切なお客さんが第一の御方か
3 子どもにおよぼす女の影響
4 家庭における女の影響
5 教会に姉妹がおよぼす影響
6 母の名はエホアダン
7 知恵のある女は自分の家を建てる
8 望みが長びくと
9 いたんだ葦
10 決断
11 もし・・・ならば
12 満ち足りる心
13 霊的人食い人種
14 ディナ
15 サッピラ
16 姉妹も祭司です
17 バテ・シェバ
18 またもかまれた
19 何をすればよいか
20 女性実業家
21 真理はあなたを自由にする
22 逃げなさい
23 七面鳥も
24 美しい盗人たち
25 手をのばしてその尾をつかめ
26 もはや悲しげではない
27 リベカ
28 しもべ
29 おみやげ
30 チッポラ
31 自転車のあかり
32 どびらを閉めて
33 母
34 失望
35 レア
36 王の前に立ったエステル
37 神様のテープレコーダー
38 ルデヤ
39 貧乏人
40 ラハブ
41 識別力
42 主よどこにおられましたか
43 私の経験より
41 識別力(みわける力)の本文を掲載いたします。
ある日、私と長女ルツはロサンゼルスの街を歩いていました。すると反対の方角から、ひとりの身なりのきちんとした若い男の人が歩いてきたのです。彼は物思いにふけっていたようで、もう少しで私たちとぶつかるところでした。その人はあわててわきへ寄りましたが、その瞬間、私は彼が使っている髭剃り用のクリームのにおいに懐かしさを感じました。
そのクリームは、亡くなった主人が使っていたのと同じ物だったのです。私たちは、愛する者を亡くすと、その人のことを忘れようと思っても忘れられず、かえって、その人のことを思い出します。・・・髭剃り用のクリームでさえ。
私がその小さい出来事を思い出したのは、先日、詩篇45篇を読んでいた時でした。
「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおりを放ち、象牙のやかたから聞こえる緒琴はあなたを喜ばせた。」(詩篇45篇6-8節)
ここを読みながら思いました。「どうして私の心は主の着物のにおい、また、注がれた油のにおいに気付かないのだろうか。あの髭剃り用のクリームには、すぐに気がついたのに。」そして、ベタニヤのマリヤのことを考えました。ベタニヤのマリヤは主イエス様の着物にすでに没薬のにおいがしていると気付いていました。他の弟子たちも、ご自分がエルサレムで殺されると言われた主イエス様のことばを聞きましたが、しかし、その意味を理解することはできませんでした。ベタニヤのマリヤだけが、主の死と没薬の関係に気付いたのです。この時のマリヤにとって、大切な事は一つしかありません。
すなわち自分の愛する方が死ぬ。しかもそれは自分の罪のためです。マリヤは、イエス様が自分の罪のために死なれる前に自分にできることをしたい(主に喜んで欲しい)と思いました。
それで、イエス様がまだ生きておられるうちに、高価なナルド油の入った器を壊してイエス様の葬りの準備を行いました。『イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」』(マルコの福音書14書3-8節)
『マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人人に施さなかったのか。」しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」』 (ヨハネの福音書12章3-8節)
ベタニヤのマリヤが主の死を理解し、主を葬るのにふさわしい代価をはらう心を持っていたことは、イエス様に大きな喜びを与えました。どうしてマリヤにはそのような素晴らしい識別力(正しい事と間違った事とをみわける力)があったのでしょうか。私たちと違い、ベタニヤのマリヤは特別なのでしょうか。それとも私たちもマリヤと同じ識別力を持つ事ができるのでしょうか。
次にアビガイルのことを考えてみましょう。
「どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。 主がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。」 (第一サムエル記25章28-31節)
このみことばを読むと私たちはアビガイルの霊的な識別力に驚きます。この時のダビデはまだ亡命者のように、命をねらっているサウロ王から逃げ回っていましたが、アビガイルは、ダビデが必ずイスラエルの王になることを信じて素直にダビデの前にひれ伏しました。
それに比べてアビガイルの夫のナバルは、『ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」』 (第一サムエル記25章10-11節)
このように言ってダビデをバカにし、ダビデに食べ物を与えようとはしませんでしたが、アビガイルはナバルとは違い、ダビデに国を与えるという神の約束を信じていました。ナバルの死後、アビガイルはサウル王に追われ、荒野で生活しているダビデと喜んで結婚しました。
どうしてアビガイルにはそれほどの識別力があったのでしょうか。ベタニヤのマリヤやアビガイルがどのようにして識別力を身につけたのかを知る個所が聖書に記されています。
『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』(ルカの福音書10章38-42節)
マリヤはマルタとは違い、主の足もとにすわり、みことばに聞き入っていました。マルタは、みことばを聞くよりも、もてなしに心が捕らわれていました。私たちもマルタと同じではありませんか。マルタのように、今日は、奉仕があるから、聖書が読めない。今日は大事なお客様が来られるから、聖書が読めない。今日は、仕事が忙しいから、聖書が読めない。今日は、子どもの事で忙しいから聖書が読めない。今日は、今日は、忙しい、忙しい・・・といった具合に聖書を読みません。これでは、マリヤやアビガイルのような識別力を持つ事はできません。
主はマルタ(あなた)に言われました。「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」 (ルカの福音書10章42節)
私たちがどうしても必要なこと・・・主の足もとにすわってみことばに耳を傾ける事ができるならば、マリヤやアビガイルのような識別力を持つ事ができます。捨てられていたダビデと結婚したアビガイルは、神が約束どうりにダビデに王座を与えられた時、ダビデ王の妻として、その栄光にもあずかることができたのです。
私たちの世界では、主イエス様は捨てられています。私たちがベタニヤのマリヤやアビガイルのように、主と親しく交わって(主の足もとにすわってみことばに耳を傾けるならば)その御衣の没薬、アロエ、肉桂のにおいに気付くはずです。この世の荒野で、主にお会いし、私たちの持ち物、時間、労力、また私たち自身をも喜んで主にささげることができるならば、幸いです。まもなく私たちの王(主イエス様)は私たち花嫁(クリスチャン)を迎えに来られます。その時、私たちは王の花嫁としての栄光にあずかります。しかも、その栄光は永遠に続くのです。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」 (第一テサロニケ4章16-18節)
『また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。』また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」』(黙示録19章5-8節)