私たちは、不安だらけの世の中で暮らしています。将来の不安、健康の不安、人間関係の不安、生活の不安、まさに、不安に囲まれた中での生活です。
ならば、安心は、どこにあるのでしょうか。今ある安心は、本当に確かなものでしょうか。現実は、幻のような安心によりすがって生きているのかも知れません。
でも、それでも日々の生活は過ぎさっていきます。将来、どうしても目を背けることができない不安に襲われるとき、あなたなら、どうしますか。
どうやって不安から、逃れますか。逃げても、逃げても、目をそむけても、そむけても襲ってくる不安にどう対処しますか。
どのような不安に襲われても決して揺らぐことのない安心(救い)を手に入れたいとは思いませんか。「不安より安心へ」は、そのような安心(救い)を教えてくれる小冊子です。
不安より安心へ
救いの確信と喜び
目次
「あなたはどのクラスで旅行しておられますか」
確信が持てないこと
救いの方法
あなたは神の御子を信じますか
自分が救われていることを知ること
救いの喜び
「あなたはどのクラスで旅行しておられますか」
このようにおたずねするのは、あなたが「永遠」に向かって旅をしておられるからです。その旅は、やがてまもなく終わりを迎えます。しかも、自分がいつ終点に着くのか、つまり、死という終着点にいつ到着するのかは、だれにもわかりません。
「あなたはどのクラスで旅行しておられますか」。飛行機で旅行する場合は、ファーストクラス、ビジネスクラス、エコノミークラスがあります。この三種類を次のようにたとえてみましょう。自分がそのうちのどれに当たるか、確認してみてください。
ファーストクラス――救われており、しかも、そのこと(自分が天国に向かって いること)を知っている人。
ビジネスクラス――自分が救われているのかどうかがわからず、救いの確信を 持ちたいと思っている人。
エコノミークラス――救われていないばかりか、救いにまったく関心のない人。
もう一度、おたずねします。「あなたはどのクラスで旅行しておられますか」。自分が永遠にどうなるかが問われているのに、この問題に無関心であるとしたら、それは大きな間違いと言えるでしょう。
先日、ある人が、空港で待機していた飛行機にあわてて乗り込んで来て、ハアハアと息を切らしながら自分の座席にすわりました。
同乗客が「ぎりぎり間に合いましたね。すぐに離陸しますよ」と言うと、彼は、荒い息づかいをしながら、「ええ。でも、……これで三○分……もうかったんですから、……走る……値打ちはありますね」と、とぎれとぎれに答えました。
「三〇分もうかった!」 私は心の中でそのことばを繰り返さずにはいられませんでした。あれほど一生懸命に走る価値が三○分にあるとしたら、永遠にはどれほどの価値があるのでしょうか。
けれども、この世における自分の利益は抜け目なく求めても、やがて来る「永遠」に対しては、まったく目が開かれていない人があまりにも多いのです。
神はご自分の尊い御子を与えてくださり、御子は私たちの罪のためにカルバリで死んでくださいました。そのようにして、無力で反抗的な罪人たちに対する神の限りない愛が示されたにもかかわらず、彼らはその愛を気にも留めません。彼らは、神が罪を憎むと明言しておられるにもかかわらず、この世の人生の短さを知っているにもかかわらず、死後のさばきが恐ろしいものであるにもかかわらず、そして、ついには地獄で目覚め、耐えがたい自責の念を感じる可能性が高いにもかかわらず、そのことに無関心です。人々は、まるで神もなく、死もなく、さばきもなく、天国も地獄もないかのように、悲惨な最期に向かって急いでいるのです。
この文章を読んでおられるあなたが、もしそのような人であるなら、神が、今すぐにでも、あなたをあわれんでくださいますように。あなたがこの本を読んでおられるうちに、神があなたの心の目を開けてくださり、あなたの危険な状態を示してくださいますように。あなたは、終わりのない苦しみへの崖(がけ)っぷちに立って、今にもすべり落ちようとしておられるのですから。
皆さん、まさかと思われるかもしれませんが、あなたの状態はまったく絶望的です。永遠について考えるのをこれ以上延ばしてはいけません。ぐずぐずしていると、サタンの思うままになってしまいます。サタンは「盗人」であり、「偽り者」であり、「人殺し」であることを覚えておいてください。スペインのことわざに「『いつか…しよう』という道は『一度も…しない』という町に続いている」というのがありますが、実際そのとおりです。永遠に向かって同じように旅をしている道連れのひとりとして、私は読者の皆さんにお願いします。「先延ばし」という名の道をこれ以上歩まないでください。「今」が「救いの日」であることを忘れないでください(Ⅱコリント六・2)。
しかし、あなたは次のようにおっしゃるかもしれません。「私は自分のたましいの幸いについて無関心ではありません。確信がないので、とても困っているのです。私は、あなたがおっしゃる『ビジネスクラス』の乗客のひとりなのです」。
確信が持てないこと
皆さん。「無関心」も「確信のなさ」も元は同じ――不信仰――です。無関心は、人の罪と滅びを信じないことから、確信のなさは、神が人を救うために備えてくださった唯一の方法を信じないことから生じます。この本は、自分が救われていることを確信したいと願っている人たちのために書かれました。
あなたのたましいの苦悩は理解できますし、あなたがこの最も重要な問題に熱心であればあるほど、「自分が本当に救われていること、そして永遠に救われていること」をはっきり知りたいと強く願われることでしょう。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(マタイ一六・26)。
あなたがご自宅から遠い所におられるとしましょう。暗い冬の夜で、道に迷ってしまいました。あなたは道路の分岐点に立って、どちらに行けばよいのか、通りすがりの人にたずねると、その人は、「○○通りを行くのがよいと思いますよ。目的地に到着できればいいですね」と言うとします。あなたは、「思います」とか「……であればいいですね」とかいったことばで満足できるでしょうか。とてもできないでしょう。あなたはそれを確信したいと思うでしょうし、さもなければ、進めば進むほど不安が募ることでしょう。ですから、死んだあとで自分のたましいがどうなってしまうのか心配でならないときに、食欲がなくなったり、眠れなくなったりしたとしても、何ら不思議なことではありません。
自分の財産を失うことは一大事です。
自分の健康を失うことはそれ以上の一大事です。
けれども、自分のたましいを失ってしまったら、
だれもそれを取り戻すことができないのです。
さて、皆さん。聖霊の助けを得て、はっきり説明しておきたいことが三つあります。
①救いの方法
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」。
(使徒一六・31)
②救いの知識
「神の民に、罪の赦(ゆる)しによる救いの知識を与えるためである」。
(ルカ一・77)
③救いの喜び
「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように」。 (詩篇五一・12)
この三つは密接に関連していますが、その土台はみな違います。そのため、ある人は、救いの方法は知っているのに、自分自身が救われているということは知らないかもしれません。また、自分が救われているということは知っていても、それに当然伴うはずの喜びがないということもあり得るのです。