あなたは、「救われていますか。」
このように問いかけられた時、あなたなら、どうお答えになりますか。
聖書から、確信を持って「救われている。」とお答えになることができますか。
それとも、あなたの心には、動揺が広がり、何ともいえない不安にさいなまれますか。
また、「私は、本当に救われているのだろうか」と悩み・苦しみ・不安に襲われたことは、ありませんか。
このような不安に打ち勝つ方法は、一つしかありません。
聖書から、「救いの確信」を得ることです。
「救いの確信」は、聖書のみことばから、確信を得るべく、明快に、力強くあなたの心に語りかける1冊です。
救いの確信
ウィルソン・ワング著
目次
1 救いの必要
2 救いに至る道
3 救われたかどうかを知ること
4 救いの時
5 救いは行いによるのではない
6 救いの約束
7 聖霊のあかし
8 生活の変化
9 救いと勝利
10 救いと報酬の違い
11 救いは永遠のものである
12 救いの確信を持つことの幸い
1 救いの必要
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない
(ローマ三・23)。
罪から来る報酬は死です(同六・23)。
神は、天地万物を創造された聖なるお方です。その神の御前では、人はみな罪人であり、神からの栄誉を受けることができず、死――罪の報い――が私たちを待ち受けています。
神は、恵みとあわれみに満ちたお方ですが、正しいお方でもあります。まことの神は愛の神であると同時に、正義の神でもあります。ですから、神は、犯罪人に無罪を宣告することが決しておできになりません。神は罪を罰しなければなりません。有罪の者に無罪判決が下ったとしたら、「不当な判決だ。あの裁判官は正しくない」と言われても当然でしょう。神――全世界のさばき主――は、公正なお方ですから、つじつまの合わないことは決してなさいません。神は、「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル一八・4)と言っておられます。神のさばきから逃れることは、だれにもできません。
ですから、私たちは、あなたにも福音をお伝えしたいのです。罪を犯した者はみな、死に定められています。永遠に地獄で苦しまなければならないのです。よく考えてみてください。なぜイエスは十字架にくぎづけられたのでしょう。それによって、「罪は罰せられなければならない」ということが証明されています。もし罪がごまかしの利くようなものなら、イエスが十字架にくぎづけられる必要はなかったでしょう。しかし、私たちが罪を犯したゆえに、そして、罪は罰せられなければならないゆえに、私たちには何よりも救いが必要なのです。
2 救いに至る道
救いに至る道は、「贖い」によるしかありません。聖書には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル九・22)と記されています。たとえば、ある人が多額の借金をしているとしましょう。彼は借用証書に署名し、債務者になりました。その借金は、全部返さないかぎり、帳消しにはなりません。同様に、もし血が流されなければ、罪は赦されないのです。しかし、もし借金を残らず返したら、どうなるでしょうか。借金は帳消しになります。同様に、もし血が流されたなら、罪は赦されます。感謝すべきことに、私たちの救い主――イエス・キリスト――は、カルバリの十字架ですべての人のために尊い御血を流してくださいました。私たちの罪が赦され、「借金」が支払われるために。これが福音です。このようにして、罪人に救いの道が開かれたのです。
キリストの十字架は私たちに四つのことを告げています。
罪の恐ろしさ
イエス――神の愛するひとり子――の死が必要だったからです。
神の義(正しさ)
神はご自分の義に従って罪をさばき、それを罰せられます。罪は必ず神に罰せられなければなりません。イエス・キリストの死は、そのことを示しています。
神の愛
義なる神は罪を罰しなければなりません。神は、ご自分の義にそむいてまで、罪人を救うことはおできになりません。そこで神はご自分のひとり子をこの世に与えてくださいました。神のひとり子が私たち罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。ここに、神の愛が示されたのです。
キリストの身代わりの死
罪を知らないお方が、私たちの代わりに罪とされました。正しいお方が、正しくない者たちのために死んでくださったのです。
かつて、ある男が重罪を犯し、裁判にかけられました。やがて彼は、裁判官として着席しているのが自分の実の兄であることに気づきました。兄のほうも、被告人が自分の弟であることを知っていました。弟は自分を死刑にしないよう兄に頼みました。しかし、兄はそれを拒絶し、法律に従って判決を下しました。「被告人を拘置所に戻し、翌朝、処刑するように」と命じたのです。
独房に入れられた弟は、まもなく処刑されることを嘆き悲しんでいました。すると、真夜中に、兄が裁判官の服装で突然現れたのです。兄は弟に次のように言いました。「けさ、お前に死刑を宣告したのは、私が裁判官だったからだ。私はこの国の法律に従って判決を下さなければならない。しかし、ここにいる私はお前の兄だ。お前を救うために来たんだ。さあ、着ている物を取り替えよう。この服を着ていれば、看守に引き止められることもないだろう。真っ直ぐ歩いて、外に出て行け。どこか遠い所へ行き、そこで仕事を見つけて、まっとうな人生を歩むことだ」。兄は独房の中で、死を迎えるときを待ちました。そして、翌朝早く、首をはねられたのです。
二日後、このことが町中に知れ渡りました。自分たちの町の裁判官が、弟の身代わりとなって死んだのです。同様に、イエス・キリストも私たちを愛し、私たちのために死んでくださいました。もしイエスが私たちの身代わりとなって死なれなかったら、私たちに救いはなかったのです。
3 救われたかどうかを知ること
「あなたは救われていますか」。これは重要な問題です。あなたはどうお答えになりますか。このきわめて重大な事柄について、取り留めのない考えや、漠然とした考えを抱くべきではありません。主イエスは、私たちがそういう考えを持つことを望んでおられません。自分が救われているということは、知ることができますし、また、知るべきなのです。聖書には次のように記されています。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです(Ⅰヨハネ五・13)。
この聖句を読んで、次のように自問してみてください。「自分が救われているということを知る資格のある者はだれでしょうか」。それは、「神の御子の名を信じているあなたがた」です。もしあなたが、主イエスを自分自身の救い主として受け入れておられないならば、救われるとはどういうことなのか、わからなくても当然でしょう。あなたは、主イエスを心から信じておられますか。主の御血があなたの罪をきよめることを信じておられますか。もしそうなら、あなたは、自分が救われていることを知るべきです。
多くの人が、長年イエスを信じているにもかかわらず、「私は救われています」と断言できずにいます。なぜでしょうか。みことばを注意深く学んでいないからです。「聖書はあなたに知恵を与えて……救いを受けさせることができるのです」(Ⅱテモテ三・15)。彼らは気がついていないのかもしれません。みことばを自分自身のものにしていないのは確かです。「私が……これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と記されているにもかかわらず。何と残念なことでしょう。したがって、私たちはこの問題に関して聖書を調べ、明確な理解を持つべきです。知らなかったでは、すまされないのです。