福音ア・ラ・カルト
23のショートメッセージ
竹尾 潤 著
はじめに
福音ということばは、辞書を引くと、「よい知らせ、喜ばしいおとずれ」というような意味が記されています。そして、もう一つの意味として、「キリストによって罪人が救われるという教え」というような意味も、必ず載っているはずです。
世の中には、よい知らせがたくさんあります。病気が治る、お金が儲かる、試験に合格する、などなど。これらのことも、人によっては、確かに福音と言えるかもしれません。けれども、最もすばらしい福音は、実は、後者のほうなのです。
その福音は、どのようなキリスト集会(教会)でも、そのための集まりが持たれ、そのつど、語られていると思います。ですから、後者の福音がなぜいちばんすばらしいかということは、集会に行き、そこでお話を聞けば、よく説明がなされると思います。
けれども、なかなか集会に行く時間がないという方や、あるいは、今までまったく聖書の話を聞いたことがないという方、また、聖書を読んでもよくわからないという方もいらっしゃるかと思います。それらの方に対して、このすばらしい福音を、できるだけわかりやすくお伝えしたいという趣旨のもとに、この本は出版されることとなりました。
集会で福音が語られる場合、どんな場合でも、だれが語っても、「主イエスを信じなさい」(使徒の働き一六章三一節)という結論にたどり着きますが、その切り口はさまざまです。また、必ず語らなければならない重要なポイントもいくつかあります。この本はそれらの事柄を、二十三の章に分けて、なるべくその章自体で、話が完結するようにしました。ですから、最初から最後まで順番に読んでいただけたらいちばんよいのですが、気軽に、興味のあるところから読んでもいいようにも構成されています。
副題の「ア・ラ・カルト」とは、「献立表によって選ぶ一品料理」のことです。ですから、一章一章を好みに応じて、読んでいただこうという意味が含まれています。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とあるように、聖書のみことばは、人間にとって、肉体の糧よりもっと大切な、本当の意味での食物なのです。
この本が、読まれた方にとって、少しでも福音を理解する助けとなることを切に願っています。
最後に、伝道出版社のJ・B・カリー兄、出版にあたり、いろいろご尽力くださった北嶋幹士兄をはじめ、編集や校正に携わってくださった姉妹方に、この場をお借りして、お礼を申し上げます。
二○○六年 十一月
竹尾 潤
目 次
1 天地創造について
2 神について
3 聖書について
4 人間について
5 死の起源について
6 罪について
7 この世の終わりについて
8 死後のさばきについて
9 悪魔について
10 神の愛について
11 神の御子イエス・キリストについて
12 三位一体について
13 キリストの降誕について
14 キリストの生涯について
15 キリストの十字架について (1)
16 キリストの十字架について (2)
17 キリストの復活について
18 キリストの昇天について
19 永遠のいのちについて
20 信仰について
21 悔い改めについて
22 従うことについて
23 信仰生活について
1 天地創造について
初めに、神が天と地を創造した。(創世記一章一節)
何事にも初めがあります。生命には誕生した瞬間がありますし、建物にも建築された時があります。製品ならば、製造された時があるはずです。私たちは、そのことを当然のこととして理解しています。
そうであるなら、私たちの住んでいる地球や、広大な宇宙にも、「必ず初めがあったはずだ」とは思われないでしょうか。永遠の昔から存在していたのではないということは、だれもがうすうす感じていると思います。けれども、宇宙の始まりがいつで、どのようにできたかについては、いまだに明確なことがわからないのです。いろいろな研究者がいろいろな説を唱えますが、残念ながら、決定的なものがない状況です。人間のちっぽけな頭でこの先いくら考えても、それを解明することはむずかしいでしょう。
はっきり言えることは、これらのものが偶然に存在することはあり得ない、ということです。家にしても製品にしても、それらのものが存在しているということは、それを作った人がいるということです。それらのものが偶然にできあがることはあり得ません。それが複雑なものであれば、なおさらです。では、この地球や宇宙はどうでしょうか。実に秩序正しくできています。地球は一定の速度で自転し、公転しています。太陽との距離も、生物が生きていくのにちょうどよい距離を保っています。こんなに精巧なものが、偶然にできあがったと考えられるでしょうか。
地球の誕生は、今から約四十六億年前と言われています。では、四十六億年あれば、地球や宇宙は偶然にできあがるのでしょうか。そもそも、この四十六億という数字にも、明確な根拠はありません。あくまでも仮定に基づいた計算上の数字にすぎませんが、私たちは、この数字に、何となく納得させられてしまっているのです。
人間が理解できる時間の感覚は、せいぜい百年から千年ぐらいです。その範囲の中なら、冷静な判断をすることができます。ですから、「この地球は、千年かかって、偶然にできあがった」と言われれば、おそらくだれも信じないでしょう。それはあり得ないと、常識的に判断できるからです。
しかし、四十六億年となると、何となく、「そんなこともあるのかな」と思ってしまうのです。その数字は理解の範囲を超えているからです。何百円とか、何千円とかいうお金しかもらったことのない小学生が、いきなり何十億円もらえると言われても、ぴんと来ないのと同じです。いわば数字のマジックです。けれども、千年であろうと何十億年であろうと、あり得ないことは、あり得ないのです。
ナチスの独裁者ヒトラーは、自著「わが闘争」の中で、大衆は小さなうそより、大きなうそにだまされやすい、というようなことを書きました。このことは、進化論にもぴったり当てはまると言えます。
では、偶然にできたのでないなら、この地球と宇宙はどうやってできたのでしょうか。その明確な答えが、本章の冒頭のことばです。神がこの宇宙と地球を造られた――これが、人類がずっと考え続けてきたことに対しての、単純な答えなのです。
頭のいい学者がたくさんいながら、なぜ、この単純な結論がほとんど受け入れられていないのでしょうか。それは、彼らが「神はいない」という前提の下に物ごとを考えているからです。神がおられるという選択肢を初めから除外し、そのうえで、結論を模索しているからです。彼らにとって、神の存在を認めることは、時代に逆行しているように思われ、何となく恥ずかしいことのように感じるのでしょう。そのような風潮は、十九世紀後半ごろ、進化論の誕生とともに起こりました。しかし、冷静に判断すれば、そのような考えこそ非論理的であり、非科学的だということがわかります。
そもそも、この宇宙と地球が偶然にできあがるということは、確率的に皆無と言えるのです。多くの学者がその確率を無視して、さまざまな理論を構築しているのですから、非常にこっけいと言えます。偶然というものに、神と同等の力があるとみなしているのですから、もはや一種の信仰と言ってもよいでしょう。
確かに、日本にも外国にも、神がこの世界を作ったという神話があります。そのような話は明らかに人間の創作ですから、それらの話を事実として受け入れることはナンセンスです。けれども、聖書に書かれていることは、それらの神話とはまったく違います。聖書という書物の信(しん)憑(ぴょう)性(せい)と、イエス・キリストという信頼すべき方をとおして、はっきりとそのことが説明できるのです。聖書という本も、イエス・キリストという方も、調べれば調べるほど、単なる宗教の書物、また宗教家でないことがわかってくるからです。
福音ア・ラ・カルトは、聖書をまったく読んだことのない方や聖書を読んでも意味が良くわからいない方には、最適の一冊です。