神の福音

聖書の富士山

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。

これは、新約聖書の「ヨハネの福音書」に出てくる有名なことばで、「聖書の富士山」と呼ばれています。あらゆる聖句の中で、神の「福音」(喜ばしい知らせ)を最も明確に、しかも、最も簡潔に示しているからでしょう。

聖書の教えによると、神は唯一です。まことの神は天地万物の創造主であり、私たち人間をお造りになったお方です。そして、私たちにさまざまなものを与えてくださる、愛なるお方ですが、その愛のきわみが、このことばに要約されているのです。つまり、「世」のために、すなわち、神を無視して生きている私たちのために、ご自分の愛する御子を与えてくださったということです。これは、イエス・キリストの十字架の救いを表しています。

今日では、愛ということばが、あまりにも乱用されていますが、その多くは自己中心的なものにすぎません。けれども、神の愛は「アガペー」の愛であり、みずから犠牲を払う、無条件の愛なのです。あなたにも、この神の愛を知っていただきたく、ぜひ聖書をお読みになることをお勧めいたします。


人間は神さまが作ったの? それとも、アメーバから進化したの?

「それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ人への手紙1章19~20節)。

私たちクリスチャンは、「神さまが人間を造られた」と信じています。このように語ると、多くの人が「それは間違っている。人間はアメーバから進化してきたんだ」と言います。どちらの答えが正しいのでしょうか。
客観的に、そして科学的に、皆さんといっしょに考えてみたいと思います。

では、「生命の起源」をテーマに考えてみましょう。

生命の起源は、今に至っては、だれも知ることができません。なぜなら、生命発生当時の地球の状態を知ることができないし、その過程を再現することもできないからです。
生命の起源を「進化によるもの」と仮定した場合、どんなに立派な仮説を立てても、それを観察したり実験したりする方法はありません。

科学とは、観察でき、その仮定を再現し実験し、また、反証し得るものでなければなりませんが、生命の起源に関するかぎり、そのようなことはできません。したがって、「生命の起源」に関する仮説は、科学の問題ではないのです。そのような学説は、どれも単なる仮定であり、それに関する実験もすべて、単なる有機化学の実習にすぎないのです。
このことは、進化論を唱える多くの科学者も認めていることです。

しかし、このことを認めていながら、なおも進化論を唱える科学者たちは、多くの実験を行って仮説を立てます。そのような実験や仮説は、「生命の起源」に関するかぎり、科学的な問題とはなり得ないのに、あたかもそれが真実であるかのように教えられてきました。けれども、進化論という仮説は、はたして、多くの科学者が「事実だ」と言い切れるほどの仮説なのでしょうか。

生命の起源について述べる前に、生命の仕組みについて考えてみましょう。

この地球には、これまでに150万種ほどの生物が発見されています。それ以上の「種」が存在している可能性もあります。からだの大きさは、小はウィルスの数十ミリミクロンから、大はシロナガスクジラの体長30メートルまで、さまざまです。

樹木の中には、重量が6,000トンのものもあり、驚くほど長生きするものもあります。

細菌の中には、南極のマイナス23度の極寒地に住みついているものもいれば、アメリカのイエローストーン国立公園にある85度の熱泉の中に住むものもいます。にもかかわらず、すべての生命が、遺伝子から伝達される暗号化された情報によって生き続けているのです。

その伝達方法は、どの生命にも共通するもので、DNAから伝令RNAを経て、生命の科学的基礎を成すタンパク質へと、とどまることなく、一方通行で流れています。これらの原理を簡単に表すと、「DNA-タンパク質-形質」ということになり、あらゆる生物の物質的な基礎になっています。

そのほかにも、生物には多くの共通性があります。どのタンパク質も、同じ20種類のアミノ酸で作りあげられています(それぞれのアミノ酸の割合は異なりますが)。

生物のからだを構成しているのは、ほぼ同じ大きさの細胞で、この細胞は、どれも同じ方法で分裂し、みずからを再生させています。4種類のヌクレチド(塩基と糖とリン酸が結合したもの)が連鎖してできているDNAの「らせん構造」も、すべての生物に共通するものです。
このように共通の特性があることによって、進化論者は、「すべての生物が共通の先祖に由来する」と確信します。
しかし、どの生物にも当てはまる特性があるからと言って、「すべての生物が共通の先祖に由来する」と言えるのでしょうか。その答えを、皆さんといっしょに考えてみたいと思います。

進化論者のオパーリンの仮説によると、生命の起源は「約35億年前、地球上において」ということになっています。そして、そのころの地球の大気は水蒸気・アンモニア・メタン・水素などから成り、酸素は存在しなかったことになっています。
「これらの大気の成分は、太陽からの紫外線や自然放電(雷)などのエネルギーによって反応し合い、アミノ酸などの有機化合物を生じていった。これらの有機化合物は海洋中に溶けこんで蓄積し、さらに反応しあって、いっそう複雑なタンパク質などの有機化合物を生じていった。

このようにしてできた『海洋の有機物スープ』の中で、有機化合物はコアセルベートという液滴をつくり、長い年月を経過する間に、この中にあるものが下界との物質のやり取りや、自己増殖の働きを持つようになって、原始的な生物へと発達した」。これがオパーリンの生命の起源の仮説です。

私が習った教科書には、ミラーが実験によってオパーリンの仮説を証明した、と書いてありました。
しかし、本当に証明されたのでしょうか。 また、ミラーの実験は生命の起源の証拠と言えるのでしょうか。
1953年、スタンレー・ミラーとハロルド・ユーレイは、想定される原始地球の条件下で、アミノ酸とその他数種の簡単な有機化合物の合成に初めて成功したことを報告しました。

当時の新聞の中には、ミラーが「試験管内の生命をつくった」と報じたものもありました。
では、ミラーの実験とは、どのようなものだったのでしょうか。

ミラーは実験装置の中に、原始大気に含まれていたと考えられるメタン・アンモニア・水素・水蒸気の混合気体を、放電管を含む装置の中に循環させました。そして、その反応生成物はゴールドトラップに集められ、その混合気体を1週間循環させた後に、トラップの水溶液を分析したのです。その結果、グリシンやアラニンなど、数種のアミノ酸が得られたのです。ミラーが生命の起源の証拠として行った、この実験は、次の3つのことさえなければ、とてもすばらしい実験です。
つまり、①誤った素材を使い、②誤った状況で実験し、③誤った結論を出したことです。

第一に、ミラーは素材の中に酸素を入れませんでした。なぜミラーは素材の中に酸素を入れなかったのでしょうか。ミラーは、アミノ酸が酸素に触れると分解してしまうのを知っていました。

ミラーは素材の中にアンモニアを入れました。

しかし、原始地球に酸素がなければオゾン層もなく、そのため、紫外線によってアンモニアは分解してしまいます。したがって、原始地球のモデルとしてアンモニアを入れると酸素を入れなければならないし、酸素を入れないのならアンモニアを入れるわけにはいきません。

この結果、ミラーの実験の素材は間違っていました。

第二に、ミラーは電気放電によってアミノ酸を作りました。しかし、ミラーはエネルギー原がどのようなものであっても、ものを生成するよりも生成分を分解するほうが、はるかにたやすいことを知っていました(分解の量子収率によると、分解は合成よりも10,000倍から100,000倍も容易である。分解の量子収率とは、光化学反応において実際に化学変化を起こした分子の数と吸収された光(量)子の数との比をいう)。

このため、ミラーは、電気放電によってアミノ酸が分解してしまうことを防ぐために、水蒸気を循環させました。また、放電管に生じた生成分は、不揮発生生成物を分離するために準備したトラップに流し込まれるようにしました。一方、混合気体は放電管の中を還流し続けますが、そこに生じた、ごく微量の不揮発生生成物は、すぐにトラップの中に押し出されて分離されるかたちにしていました。

これらのことによって、ミラーは、電気放電によるアミノ酸の分解を防ぎました。
皆さん、考えてみてください。ミラーの実験のモデルである原始地球には、ミラーのように、エネルギー源による分解を防いでくれる科学者はいなかったはずです。

この結果、ミラーの実験の状況は間違っていました。

第三に、ミラーの作ったアミノ酸では、決して生命を形成することはできません。
なぜなら、アミノ酸には、光学的に見て、左旋生のものと右旋生のものとがありますが、生物の発生が可能となるのは、アミノ酸が左旋生の場合に限られるからです。もし、ほんのわずかでも右旋生タイプの分子が混じっていると、新陳代謝のできない異構造タンパク質に変わってしまうのです。

しかし、ミラーの実験で作られたアミノ酸には、いつも右旋生のアミノ酸が混じっていました。
この後、ミラーの実験の追実験が何回も行われましたが、発生するアミノ酸には、常に右旋生のアミノ酸が混じっていました。この結果、ミラーの実験の結論は間違っていました。

ミラーの実験を皆さんといっしょに考えてきましたが、そこから得られる結論は、「ミラーの実験は、大騒ぎはしたものの、生命の起源についての科学的価値はまったくない」ということです。

「生命は偶然に生じた」と言いながら、ミラーは自分の知恵を使ってアミノ酸を作り出したのです。ミラーの実験がでたらめだとしたら、原始地球の大気の状態はどのようなものだったのでしょうか。

もし仮に、オパーリンによる仮説のように、原始地球に酸素がなかったとします。

酸素がなければ、大気にオゾン層が形成されません。オゾン層がなければ、紫外線が地上に直接、降り注ぐことになります。その結果、アミノ酸が紫外線によって分解します。

今度は、原始地球の大気に、(現在の地球と同じように)酸素があったと仮定してみましょう。

その場合、アミノ酸は酸素によって分解します。このように、もし原始地球の大気中に酸素があれば、原始生物は酸化されて破壊されるために、生物は発生できません。また、原始地球の大気中に酸素がなければ、オゾン層もないため、生物は紫外線によって存在できません。この矛盾を解決するために、進化論による仮説では、「生命は水中で進化した」という仮説を立てました。

確かに、水中ならば、地上に降り注ぐ紫外線は当たりません。ミラーとユーレイは放電効果によってアミノ酸を作りましたが、原始地球では雷によって同じ作用が起きた、と進化論による仮説では主張しています。ところが、雷は海の中のメタンガスやアンモニアには、ほとんど届きません。

万が一、化学変化が起こったとしても、水・アンモニア・二酸化炭素・窒素・メタンが化合してアミノ酸を作り、やがてそれらが集まってポリペプチドが形成されなければ、生命体とはならないのです。ところが、アミノ酸からポリペプチドへの合成は、水中では不可能なのです。水分が多すぎると、せっかくできたポリペプチドが分解されてアミノ酸に戻ってしまいます。つまり、「水中では、生命のもととなるタンパク質が形成できない」のです。ここで、今まで皆さんといっしょに考えてきたことを整理してみましょう。

原始地球に酸素があってもなくても、生命の発生が水中であったと考えたとしても、生命は決して偶然には発生しないのです。
では、次に、(こんなことは決してあり得ないのですが)原始地球の海に、塩基・糖・左旋性アミノ酸などの有機化合物が溶け込んでいたとします。

しかし、生命が発生するためには、タンパク質の合成と核酸合成が同時に起こらなければなりません。タンパク質を合成するためには、アミノ酸は互いに結合しなければなりません。また、活性のあるDNAを構成する核酸を作るためには、さらに、それ以外の化学物質も加えなければならないのです。やっかいなことに、この2つの反応は互いに切り離すことができません。どちらか一方がなければ、もう一方も起こり得ないのです。

タンパク質の合成はDNAに依存しています。ところが、前もってタンパク質が存在していないと、DNAも形成されないのです。これは、「ニワトリが先か、タマゴが先か?」という問題と同じことになります。
問題はこれだけではないのです。もし進化論の仮説が正しいとすると、「無生物から生物への転換は、どのようにして可能になったのか?」という最大の疑問が生じるのです。

生物はその存在を永続させます。からだは、一生の間に大きく、また、複雑になります。
すなわち、成長するのです。一方、無生物はやがて崩壊します。生物は、たとえ損傷を受けても回復できる、という独特の能力を持っています。これは細胞レベルだけではなく、完全な固体レベルにも当てはまります。生物は繁殖するからです。そのほかにも、生物は、新陳代謝の結果生じる老廃物を処理したり、刺激に反応したりするといった、無生物にはない特徴を持っています。

最も単純な細胞の細菌でさえ、この特徴を持っています。生物というのは、それ以前の非生物的化学物質からは考えられないほどの、格段の飛躍を遂げています。

ノーベル賞を受賞したハンガリーの生化学者セント・ジョルジは、進化論者が主張する「生命は、長い時間をかけて、偶然に発生した」という仮説に対して、「時間がすべてを解決する、などという論理は絶対に有り得ない」とした上で、「この理論は、『れんがをデタラメに積み上げて放っておいたら、城やギリシャの神殿が勝手にできあがった』と言うのと同じだ」と述べました。

また、イギリスの有名な天文学者であるフレッドホイルは、C.ウイックラマシンジとともに、生命が偶然に発生する確率を計算しました。その結果は、1040000の1という確率になったそうです。
フレッドホイルのことばを借りれば、「生命が偶然に発生する」と信じることは、「ゴミ捨て場を襲った竜巻が、そこにあった物を寄せ集め、ボーイング747型機ができた」と信じることなのです。

もし私が、「あそこにあるジャンボジェット機は、2年前に竜巻によってできた」と言ったとします。皆さんは、こんなバカげたことを信じることができますか。

決してできないはずです。そんなことは現実には起こり得ない、と知っているからです。

生命が偶然に発生した、と信じることも同じことです。では、実際に、簡単な確率を使って計算してみましょう。最初にも少しお話ししたように、DNAは、地球上のすべての生物の遺伝子を構成する、らせん構造をした「核酸」という物質で、「染色体」とも呼ばれ、すべての細胞に入っています。

たとえば、人間のDNAが46本の染色体の束になっていることは、よく知られています。

DNAには、その生物の体を作るための情報がすべて含まれていて、その情報は、「アデニン(A)・チミン(T)・グアニン(G)・シトシン(C)」という4種類の塩基によって書かれています。たとえば、TGAのように3個の並び(コドンと呼ばれている)が一種類のアミノ酸(たとえばTGAにはスレオニン)に対応しています。
細胞の中では、必要なときに、この情報をもとにして20種類のアミノ酸を結合して、生物の体を構成するタンパク質を作ります。

このような意味で「DNAが生物の体の設計図、または、組み立て情報を記した文書である」と言うことができます。

最も単純な生物であると考えられるウィルスのDNAでの500個ほどの塩基を持っています。
そこで、確率の計算をするために、500個のアデニン(A)・チミン(T)・グアニン(G)・シトシン(C)の並びを遺伝情報として持ったウィルスを考えてみましょう。
このウィルスが偶然にできたとすると、A・T・G・Cも偶然に並べられたことになり、これらを並べるには、当然それなりの構造が必要です。その構造も偶然にできなくてはならなかったはずですが、これは、何らかの方法ですでにあるものとしましょう。いま考えているウィルスの塩基の並びが次のようなもので始まるとします。

ATGCCATTCATGACCT‥‥‥‥‥
12345678901234567890‥‥‥‥‥

1番目はAとなっていますが、これが偶然に選ばれたものだとすると、ここにはAの代わりにT・G・Cが来てもよかったわけですから、これがAとなる確率は4分の1です。
2番目はTとなっていますが、これもTの代わりにA・G・Cが来てもよかったわけですから、これがTとなる確率は4分の1です。
最初の2個がATとなる確率は42分の1となります。同様に最初の3個がATGとなる確率は43分の1です。500個の塩基が偶然に並ぶ確率は4500分の1となります。

P=(1/4)500 =4-500‥‥‥(1)

これは非常に0に近い数字です。統計学上、確率の幅が「1030分の1」ないし「1050分の1」の場合は、確率0とみなされます。
今まで考えてきたウィルスの遺伝情報が偶然にできる確率というのは、統計学上はゼロとみなされる数より、はるかに小さい数になりました。

進化論の仮説によると、このような確率の数字も、時間がすべて解決すると主張しています。

しかし、皆さん、考えてみてください。生きた細胞は、驚くほど複雑なメカニズムを持っています。
その中でも、情報に限って言えば、単細胞のバクテリアである大腸菌でさえ、百科事典のエンサイクロペディア・ブリタニカ、1億ページ分に等しい情報が入っています。この遺伝情報を、「知性」ではない「偶然」が作り得るのでしょうか。「アメーバから人間へ」ということばは進化論ではよく語られていますが、実際には、単細胞生物は非常に複雑で、単なる偶然から単細胞生物が発生するチャンスはまったくありません。

最近の進化論者の仮説では、「生命は宇宙から来た」と言っています。著書「コスモス」や映画「コンタクト」で日本でも有名な故カール・セーガン博士たちは、1990年7月27日付のアメリカの
科学誌「サイエンス」に、「原始地球の気圧計算から、地球の生命は、彗星(すいせい)がもたらした物質で直接作ることができた」と著しました。

それを裏づけるかのように、1996年8月、NASAが「火星の隕石(いんせき)中に生命の痕跡を発見」と発表しました。しかし、この発表には多くの疑問が生じています。NASAのマッケイ博士らの発見は3つのポイントに分けられます。
1つ目の発見が、多環式芳香族炭化水素(PAH)の発見です。マッケイ博士らは、南極の氷中に含まれる量の100倍ものPAHを炭酸塩鉱物中に発見しました。

彼らが発見したPAHは、バクテリアのような微生物活動によってできる単純な構造で、種類の少ないものでした。
2つ目の発見が、透過電子顕微鏡で炭酸塩鉱物の縁の部分を調べた際に見つかった、1ミリのさらに1万分の1ほどの磁鉄鉱の組成や形状は、太古の地球のバクテリアがつくったものによく似ていました。

3つ目の発見が、化石ではないかとマッケイ博士たちが考えているものです。これらは、炭酸塩鉱物の表面を、高分解能の走査型電子顕微鏡で観察して見つかりました。形は卵型チューブ状で、大きさは先ほどの磁鉄鉱と硫化鉄とほぼ同じでした。これらの構造も、イタリア南部の炭酸塩鉱物の表面に見つかったバクテリアとよく似ていました。

これらを発見したマッケイ博士たちは、いずれも単独では無機的にできたと考えることも可能としています。しかし、3つの事実がいずれも炭酸塩鉱物に伴っているために、「生物活動によってできたと考えるのが、いちばん自然だ」としています。
マッケイ博士たちの結論は、「火星の隕石中に生命の痕跡を発見した」ということではありません。

あくまでも、「そう考えるのが、いちばんよさそうだ」と言っているにすぎないのです。

故カール・セーガン博士たちの主張やマッケイ博士たちの結論が正しいのかどうかを、確率によって計算してみましょう(次の計算式はSさんが考えたものです)。

現在の仮説では、「宇宙はビッグバンによって200億年前にできた」と言っています。

地球はもう少し新しく、46億年前にできたことになっています。しかし、どれほどの時間が経過しているという確かな証拠がないのが事実です。

たとえば、天文学者ハッブルが発見した「銀河スペクトルのドップラー赤方変移」によって「天体系全体は拡大運動している」と解釈されていますが、その解釈に基づいて膨張開始にさかのぼると、約10億年前になります。

しかし、これからの計算では一応、宇宙は200億年前にできたとします。説明のために200億年をTとおきます。
これを秒に直せば、

T=200億年=200×108×365×24×60×60=6,3×1017(秒)‥‥‥(2)

となりますから、今、500個の塩基を1回並べ替えるのに1秒を要するとすれば、現在までに、1つの場所で、

Nt=T/1=6,3×1017(回)‥‥‥(3)

の並べ替えができたことになります。

これは1つの場所でのことですから、次に、これらの(塩基を並べ替えるための)場所が、宇宙の中に何か所取れるかを考えてみます。もし原始地球で進化が起こったとしても、生命誕生が起こり得たのは、地表の表面から10km程度までの表面に限られていたと考えられます。

しかし、今回は、「生命は宇宙から来た」という仮説のために計算の範囲を広げて、地球の表面だけでなく、宇宙全体を生命誕生の範囲とします。

アインシュタインの特殊相対性理論によれば、物質は光の速度を超える速度を持つことができないので、「ビッグバン」と「宇宙の年齢が200億年である」ことを認めるならば、半径が200億光年球の体積を考えれば十分です。

このような意味で、宇宙の体積Vを式で表せば、次のようになります。

V=(4/3)π(cT)3 =4÷3×3.14×(3×108×6.3×1017)3 =2.8×1079(m3)‥‥‥(4)

ここではcは光速度(3×108{m/s})であり、Tは200億年です。

これだけ広い宇宙空間の中に、500個の塩基を並べ替えるスペースが、最大で何か所取れるのかを考えてみましょう。

DNAの、らせんの太さは約2×10-9mですから、1つの場所での体積Vを、少し小さ目ですが、この太さを一片とする長方形の体積として計算してみると、

V=(2×10-9)3=8×10-27(m3 )‥‥‥(5)

となります。

塩基を並べ替えるための場所の数Nvは、宇宙の体積をこの体積で割れば、

Nv=V/v=2.8×1079 /8×10-27=3.5×10105 ‥‥‥(6)

となります。

さて、これですべての準備が終わりました。

(1)・(3)・(6)式から、いま考えているウィルスが現在までに何個ほどできたかという期待値nが、確率×試行回数として計算されます。はたして結果はどうなるのでしょうか。

n=PNtNv=4-500×6,3×1017×3,5×10105=2,06×10-178(個)・・・(7)

これは0個ということを示しています。

この数は、いま考えているウィルスのDNAの塩基の並びを1つ作るのには、もしも進化論の仮説で説明されているように「偶然による」と考えるならば、200億年の宇宙の歴史を、1億を22回掛け合わせた回数ほど繰り返さなければならないことを示しています。

これらの計算からも明らかなように、「生命は、決して偶然には発生しない。知性ある創造主(神)がすべての生命を造られた」と私たちクリスチャンは確信しています。

私たち人間も含めて、地球上のすべての生命は神によって「創造された」――これがすべての答えです。

「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1・1)。

皆さんは、どちらの答えが真実だと思いますか。私たち人間は「神様によって造られた」。

私たち人間は「アメーバから進化してきた」。

神様が存在されると信じることは、科学的に見ても正しいことなのです。

この宇宙を造り、私たち人間を造られた神は、聖書をとおして私たちに語りかけておられます。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」(伝道者の書12章1節)。

なぜ、「創造者」なる神を覚えなければならないのでしょうか。それは、あなたが必ず死ぬからです。

人は死にます。季節が移り変わるごとに年を取っていきます。そして、決して逃れることのできない死が、いつか必ず、あなたにもやって来るのです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル人への手紙9章27節)。

人間は、死後に、この世界の創造主である神によってさばかれる、と聖書はあなたに語っているのです。

このように言われると、あなたは、「なぜ死後の世界のことがわかるのか」と言って反発されるかもしれません。

確かに、私たち人間には死後のことはわかりません。

ならば、なぜ、私があなたに「死後に神(創造主)にさばかれる」と言い切ることができるのでしょうか。
それは、聖書が語っているからです。

聖書は、この世界を創造された真の神のことばだからです。

聖書には、間違いは一つもありません。あなたは死後に必ず真の神にさばかれます。

聖なる、聖なる、聖なる真の神から見れば、人間は罪人でしかありません。

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、
さらけ出されています」(へブル人への手紙4章13節)。

あなたは、ほかの人に対して「憎い。死ねばよいのに」と心の中で思ったことはありませんか。

もし思ったことがあるのなら、それだけで、神から見れば人殺しです。この世界の造り主であり、
私たちの心の中までも知っておられる神から見れば、人間は罪人でしかありません。

「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ人への手紙3章10節)。

神は、人の心の中の罪さえも明らかにし、さばかれるのです。
ならば、すべてを知っておられる真の神に死後さばかれた私たちは、どうなるのでしょうか。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」(ローマへの手紙3章23節)。

罪を犯し(心の中も含め)、神からの栄誉を受けることができない私たちは、死後のさばきの結果、永遠の滅びである地獄へ行くと聖書は警告します。

火と硫黄(いおう)との燃える地獄で昼も夜も永遠に苦しみを受けることになると、聖書は、はっきりとあなたに語っています。

しかし、神は愛なるお方です。

真実の愛である神は、私たち罪人を愛しておられます。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(ヨハネの手紙 第一・4章8節)

愛であり、真の神であるイエス・キリストが、滅びよりあなたを救おうとされました。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」(テモテへの手紙 第一・1章15節)。

宇宙の造り主であり、私たちを造られた真の神であるイエス・キリストが、この地上に人として来てくださったのです。

イエス・キリストは神であられたのに、あなたを地獄から救うために人となってこの地上に来てくださったのです。

そして、あなたの罪の身代わりに十字架にかかって死なれました。

イエス・キリストの十字架の死はあなたの罪をゆるすためであり、あなたを地獄から救うためだったのです。

あなたが「イエス・キリストが私の罪のために十字架で死なれた」と信じるならば、あなたの罪はすべてゆるされ、永遠のいのちを持つことができるのです。

イエス・キリストはこの救いが確かであることをあなたに示すために、死後、3日目によみがえられました。

イエス・キリストの十字架の死が私の罪をゆるすためであり、また、3日目のよみがえりが事実であったと信じるだけで、すべての罪がゆるされて滅びより救われるのです。

行いや努力はいりません。

一度も聖書を読んだことがなく、一度も教会に行ったことがなく、献金したこともなく、お祈りさえしたことがなくとも、ただ、信じるだけで、滅びより救われ、天国へ行く者と変えられるのです。

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、3日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから12弟子に現れたことです」(コリント人への手紙 第一・15章3~5節)。

イエス・キリストは、十字架でいのちを捨てられたほどに、あなたを愛しておられます。
たとえあなたが、ことばでは言い表せないほど大きな罪を犯していたとしても、それでもイエス・キリストはあなたを愛しておられるのです。

「なぜ、こんなにも汚い罪人である私を愛してくださっているのか」と疑問に思われるかもしれません。

聖書は、そんなあなたに

「なぜなら神は愛だからです」(ヨヘネの手紙 第一、4章8節)

と語りかけています。

イエス・キリストの両手には、あなたを愛するしるしである釘(くぎ)の跡があり、わき腹には槍の跡があります。

イエス・キリストは、永遠の愛・不変の愛・完全な愛で、あなたのことを愛しておられます。
それゆえ聖書は語っています。

「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、
世(あなた)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書3章16節)。

ぜひ、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れ、永遠のいのちを持つ方となってください。